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出会いを求めるのって私にはちょっとしんどかった

この夏、珍しくちょこちょこ出会いの場に足を運んでいた。
突然、誰ともデートせずに終わるわたしのこの夏がなんだかたまらなくかわいそうになったのだ。

一度懲りたマッチングアプリに登録したり、出会いを求めていますと友人に伝えて、誘ってもらった飲み会に行ったり。
(貴重な機会をくれた友人たちには感謝してもしきれない。自分が求めていてつくってもらった出会いの場を、自省の機会とするわたしは本当に最低不届き野郎だ。言葉もない。しかし友人がくれたいくつかの場が無ければ今回の気づきはなかったので重ね重ね感謝を伝えたい……。)

恋愛感情を抱くまでに時間がかかる傾向があるのは自覚している。それでも、今までの自分を吹っ飛ばすような出会いがあるんじゃないかと願って、行動してみた。


夏が終わり、今わたしはこう思っている。

好きな人に出会って、気があって、出かけたり暮らしたりしていくためには、しんどいことを乗り越えなければいけないのはなんでなんだろう。

マッチングアプリで自己紹介をするのも、知らない人との飲み会も、目の前の人と共通言語を一生懸命探すのも、どう見られているのか気にすることも、距離感を探りながら居心地悪く隣を歩くのも、私にはなかなかしんどい。

恋愛って楽しいことの先にあるんじゃないか?なんで私は辛いことに挑んでいるんだ??


例えば、この人といたいという想いがあって、自分の気持ちを言葉にして伝えるとか、思いやりから派生する行動とか、相手を大切にするためのアクションとか、そういうことは頑張りたいと思う。

でもまだ見ぬ何かのために、この先ずっと誰かと暮らせない自分のリスクヘッジのために、というのはぜんぜんモチベーションにならない。どこに向かって歩いているのかわからないけどただしんどい。


わたしはキリギリスなのか?

この先の未来ひとりでいるわたしが、若い時に婚活をさぼった、怠惰みたいになるような気がしてしまうのはなぜなのだろう。

わたしは普通に楽しく生きていたいだけだ。
仕事を頑張って、それ以外の時間は楽しいことをしていたい。それってかなり普通のことだと思うのだけど、なんでそれだとアリとキリギリスのキリギリスみたいに思えてしまうんだろう。

わたしが出会いの場になんとか足を運ぶ理由は、70%くらいはキリギリスにならないためな気がする…。
あのとき頑張ってたけどいい出会いがないなら仕方なかったねといつか言えるように、自分を納得させられるように。

わたしはキリギリスなのか?
全然違うだろ。今の人間関係はどうやって築いた?

わたしのいま大事にしている友人たちは、「友達がいないとこの先寂しいから」とつくったわけじゃない。

特に大人になってからできた友達なんて、
自分が思う楽しいことをしていた先にその人がいて、気が合って、話していると楽しくて、一緒にいる時間がもっとほしいと思って関係性を深めてきたんだ。
人間関係ってそうやって築くものじゃないのか????「楽しいか楽しくないかわからないけどとりあえず会ってみよう」ってこと、あんまりないよね。入学式のあとの親睦会くらい???(あれも苦手だったな……)

ひとりでいることを選ぶ人もいていい。それは怠惰なんかじゃない。その人らしく生きた結果。楽しい方を選んだらそれだったんだ。ひとりでも、ふたりでも、楽しい方を選べば良い。


わたしは子供を産みたいのだろうか

とはいえ、わたしが子供を産む年齢にリミットがあることは知っている。
いま行動しなければ、子供を持たないことを後に後悔するのかもしれない、と焦る想いはずっとある。もちろん今の自分の妊孕性もわからないから想像でしか語れないのだけど。

でも27歳の今の私は、なんとしてでも子供を持ちたいとは思っていない。妊娠出産子育てへの憧れはある。確かにある。
しかし、ひとりでも子供を育てて行きたいと思えるほど、いまのわたしは子供を持つことを渇望していない。いま一緒に子育てをしたいと思えるパートナーはいないのだから、持つ想像ができない。
そしたら仕方ないじゃないか。



パートナーを持つものと持たざるもの


パートナーに関して言えば私は間違いなく"持たざるもの"。
そのさみしさや劣等感を感じる機会はかなり多い。ていうか、周りに彼氏彼女ができ始めた中学生の頃からずっとそれを抱えて生きてきた。

これってパートナーを持てば解決するのだろうか?
持たないとわからないことだって絶対にあると思うけど、
"持つもの"になればぽんっとレベルアップするみたいに
次のステージに行くみたいに、って、そんな手軽なものじゃないよね。
ていうか、誰かといることを選んだとしても
わたしがわたしであることは変わらないし変えたくないから。

職場が変わっても学校が変わってもわたしはずっとわたしだったし。
今だって助産師という職についているけど、わたしの人生が助産師全部に集約されてるかと言われたら絶対にそんなことはないし。仕事は好きだけど、この仕事をアイディンティティにしているつもりはない。わたしという人間は仕事だけでは語り尽くすことはできないだろう。

それと同じで、婚姻届を出して誰かの奥さんになったら「誰かの奥さん」というアイディンティティに切り替わるなんてことはないんだよ。


わたしを変えるためにとか状況を変えるためという理由でパートナーをつくるのではなくて、この人と一緒にいる時間を増やしたいという想いを一番大事にしたいと思う。



さみしさとわたし

わたしにはパートナーがいないから想像でしか語れないんだけれど、
1人でいても、誰かといることを選んだとしても、わたしの中にあるさみしさって一生付き合っていくものなんじゃないかと思う。

それは誰かになんとかしてもらって解消するよりも
そのさみしさをじーっと見つめて、
この正体はなんなんだろうと考えて、
言葉にしたり音楽を聴いたり誰かのことを考えたりするのもいいんじゃないか、と思う。

情報と繋がる手立てで溢れて、きちんと1人になることが難しいこの世の中では、さみしさを感じることだってどんどん難しくなっていると思うからさ。
味わって見つめてなにか発見できたらいいよね。


27年の人生の中でいろんな選択があって、その結果が今のわたしだ。違う選択をしていたら手に入っていたものもあるかもしれないけれど、今のわたしの手の中にあるものをわたしは愛していると思う。
まだ見ぬ何かを探しに行くより、とりあえずそれを一生懸命大切にしよう。

そうすることって、いつかもし大切にしたいと誰かに出会うときがきたら、自分の気持ちを言葉にする力や勇気や行動に繋がるんじゃないかな。


ここ2〜3年くらい同じことでぐるぐるずるずるずっと考えているような気もして、ちょっと情けなくなる。
(こんなnoteも書いてましたね https://note.com/ka6925/n/n2d5dc2afb960)
でも、成長はしていると思う。成熟の方がしっくりくるのかな?目に見えにくいかもしれないけど、こうやってじっくり考えることで見えてくることはある。
あと、この記事を書いたことで、誰かから「彼氏作らないの?」と言われたときに「2500文字くらいになるけど理由聞きますか?」と言い返すこともできるな。



今日の一曲

劇場/ヒグチアイ


さみしいけど 孤独じゃないの
愛してくれて ありがとう

ずっとこの曲のこのフレーズを心に浮かべながら書いていた。
この曲についての言葉を書いていたらあまりにも文字数が多くなってしまい、本筋からどんどん離れてしまったので別記事で書こうかなと思う。

わたしのさみしさは、この曲を味わうためにもあるんだろうな。そんな人生もいい。いいと思う。



○追加○
読んでくださってありがとうございます。
今日のこの文章、完全に自分の殻に閉じこもって書いたものなので、読んだ人がどう思うかすごく気になります。普段こんなことあまり書かないんですけど、忌憚ない感想を聞かせてもらえたら嬉しいです。

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