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誰も信頼しない世界で頼ってくれるならわたしのことが好きに決まっている

 

ひとり暮らしが苦手になったことを痛感している。
ひとりでいない方がよくて、兄に来てもらったり友達に会ったり作業をするにも外でしたりしている。なにがあったでもない、冬だからだ。

冬は嫌いだ。寒いのは嫌い。寒いこと自体が嫌いというのもあるし、気温に鈍感で冷たい部屋に何時間もいて鼻声になったりしてしまうからというのもある。ズボンが苦手で短いスパッツや丈長めのTシャツで過ごすことが多いのも風邪の原因だ。夏が恋しい。

でもそれなりに生きて、冬の乗り越え方もわからなくはない。

最近は勉強できていなくて、空いた時間は本を読んでいる。二年目にして図書館に行くを覚えた。図書館の出入り口付近に、中に本を引っ掛けて抗菌する機械が置かれていてハイテクだった。
読書、睡眠導入失敗する日も多いから捗っている。ちょっと前までは『チョンキンマンションのボスは知っている』を読んでいた。いまは『やまゆり園事件』を読んでいる。一緒に『ヤンキーと地元』も読み返している。活字が読める時期に読んでおかないと、すぐに活字が読めない時期が来る。

ルポ系の本が好きだ。自伝よりは他人が書いている方が読める。卑下が少なく、要点がまとまっていて読みやすい。

『チョンキンマンションのボスは知っている』芯に刺さった部分があった。

彼らはみな「誰も信頼しない」「誰も信頼してはいけない」という。(略)香港のタンザニア人にはみな裏切られた経験があり(略)そのくせ彼らは頻繁に(略)「彼/彼女は、私のことが好きだ」と語るのだ。誰も信用しない/できない世界で私に賭けてくたのだから「彼/彼女は私を好きに違いない」という論理が成りたっているようだ。
だがその逆に「彼/彼女は、私を嫌っている」「俺は○○が好きだ」という言葉はめったに聞かない。(略)応じなかった他者について気に病むのは、そもそも「ダメもと」「偶然」なのだから意味がないし、自分が誰を好きであるかは、私自身の働きかけの成否にはほとんど関係しない。

P264より引用

稲妻が落ちたみたいだった。
この本で密着しているチョンキンマンションのボス――香港在住のタンザニア人・カマラは、商人であり商売中心の生活をしている。だからこそ自身の要求やアイディアに偶然応答する人が現れると「俺のこと好きじゃないわけがない」ということになり、仕事も遊びも境がない彼らは人生丸ごとで愛されたことになる。誰も信用しないというハードルと商売中心の生活が、彼らを「無根拠な愛されているという自信」へ導く。

分人しながら生きているわたしは、ひとつの場所で認められても満ち足りることがなかった。仕事で怒られずに済んでいても恋愛で落ち込んだり、文章で褒められても収入が低いことにコンプレックスを持ったりした。仲良くしてくれている人にも薄く好かれていない気がしながら「でもわたしが好きならいいのだし」と丸め込んでいた。

真逆だと感じた。みんな暇じゃない中でわたしと接する時間を取ってくれているんだから嫌いじゃないに決まっている、という自信。相手に嫌われているか、じぶんが好きであるかは関係ない。
やや極端な話ではあるが、気にしすぎなわたしにとってはちょうどいいと思った。

読み返している『ヤンキーと地元』は、参与観察調査という対象の社会や集団の中に入り込んで研究する方法で沖縄のヤンキーについて長年調査をしている打越教授の本だ。実際に沖縄で彼らと一緒に(パシリとして)走り遊び働くことで見えた内面からの生態や問題について書かれていてリアルだ。

本に、仕事中先輩の「下行け」が休憩なのか下に行って仕事を手伝えという意味なのかわからない、のようなことが書いてあった。
わたしも上司が言う「打っといて」が文字を打つことなのか印刷をすることなのかわからない。職場ではどちらの意味でも使われていて、即座に判断するのは不可能だ。描かれていた沖縄の解体屋さんとわたしの仕事(事務)は近いと感じた。現場に慣れていく仕事は、どこでもそうなのかもしれない。

書かれている打越教授の若者との打ち解け方・具合を読んで唸る。
「おまえは出入り禁止だ」と言ってきた子が数日経って「あれ買ってきてくれ」と電話をかけてきても「出入り禁止なのにいいの?」と聞き「もうそんなんわすれたわ」と言われれば詰められたことも関係なく若者の元へ向かう。わたしだったら不必要に対等な関係性を求めてしまうかもしれないが、研究には邪魔なのか、それとも打越教授の人柄なのか、いつでもいつまでも彼はいい意味でよそ者でい続ける。
このよそ者という感覚を見習いたい。最近大事にする以上に、大事にされたいと思ってしまっている。

『やまゆり園事件』を読んで、生きていていい人・生きていたらだめな人はいないと再確認できた。再確認できてよかった。
匿名について随分触れられていた。被害者の名前を公表しなかったことに対する説明は短かった。じぶんだったらどうだろうと考える。

じぶん自身に偏見がなくてもそのものを隠したいという感情はすごくわかる。社会に呆れたくないがいちばん大きい。受け入れられようと思っていないから、目立たないようにするから、自由にやらせてくれという時。
たとえば刺青はわたしにとって(世代だろうか)怖いものではないけれど、罪人に入れていた時代のことも知っているし現在もイメージは悪い人と繋がっている。気弱の盾で大きく見せようとして入れる人も多いし、目立った人の特徴としてあげやすいし、この犯人も彫師に弟子入りしていたとネットに書いてあった。事実。
でも、この間の有吉さんの特番・脱法TVでも言っていたけど「刺青を入れた人は刺青を入れただけ」だとわたしも思う。社会のズレがわかるから刺青のはなしは極力しない。そういうことが他にもたくさんある。
経験上、隠すのは守りたいからで、そうすることでしか守れないからだと思う。恥ずかしいからではない。でも、恥ずかしいからの人もいるから見分けはむずかしい。

事件や加害者・被害者に絞って言えば、残念ながらどの事件も被害者の名前をほとんど覚えていない。事件自体は覚えているけど、何さんだったかまで思い出せる事件は多くない。これは加害者も同じだ。
本の中には名前の公表を「生きた証として」と書いていたが、(軽率に)そもそもで被害者の実名を報道する必要がないんじゃないかと思ってしまうがどうなんだろう。生きた証は別に残る、赤の他人にまでは植える必要もないように思う。でも夕方のニュースでA氏がB氏を刃物で、とイニシャルトークが続けば他人ごとのように感じるのもたしかだろうな。うーん

大抵の悩みは本に書いてあるけれど、本を読むだけではなく反映させなければ現状は変わらず、反映させるには体力と覚悟がいる。
だから同じ本を何度も読むことになる。それはそれでいいけど。

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