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京の静寂
静寂に包まれた京都の風景を表現した自作曲のピアノ演奏です。 シンプルな純和風の旋律が特徴です。 画像は、京都市東山区の八坂通り(やさかどおり)で夜に雨が降っている風景です。 京都と言えば、この風景と言われる位、旅行雑誌等の写真で取り上げられており、殆どの方が何となくでも見たことのある風景だと思います。 八坂通りは、八坂の塔と呼ばれる五重塔のある法観寺(ほうかんじ)に通じる参道で、細い石畳の道に風情な古い家屋が立ち並んでいる観光名所です。 法観寺に通じるなら法観通りでいいと思いますが、これは法観寺が創建当初、八坂寺という名前だったことが起因です。 また、この八坂という名前は、朝鮮半島からの渡来人である八坂氏に由来しているといわれています。
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初夏の街(オリジナルピアノ曲)
この曲は、初夏の街をイメージしたピアノソロの自作曲です。 陽射しが眩しくなる季節、草木が新緑に覆われ、爽やかな風が吹く頃、正に初夏、一年のうち、5月上旬から6月上旬までを初夏といいます。 初夏ということで、曲調も軽やかな感じに仕上げています。 初夏という季節の言葉について、俳句を詠む人は季語として馴染みが有るかも知れませんが、それ以外の人は季語に触れ合う機会がなく、初夏と言っても曖昧にしか感じられないと思います。 実際、「初夏の候(しょかのこう)」という手紙の書き始めに使う言葉を使っている人は、手紙を書く人が激減している現在、かなり限られると思います。 比較的とっつきやすい食べ物の話で初夏に触れると、初夏の食べ物と言えば、鰹をはじめ鯵や鰯などが旬を迎えます。 果物で言えば、グレープフルーツやキウイフルーツは、年中売っていますが、一番美味しい時期は初夏です。 ちなみに、昔の暦では4月が初夏でした。 また、初夏の誤りの例として、夏を7月から9月と区分して、その最初の月である7月を初夏として捉えるのは間違いです。
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スイス ベルン旧市街(ピアノ オリジナル曲)
スイスの首都ベルンの旧市街をピアノで表現した自作曲です。 ベルンは、スイスの首都ですが、人口は約14万人で小さな街です。 日本で同規模の都市の一例を挙げると東京都の多摩市(14万7千人)、埼玉県の三郷市(14万2千人)等が挙げられます。 スイスの中ではチューリッヒが一番大きな街ですので、普通に考えたらベルンが首都ではないと思いますが、これは主として政経分離を考慮したものです。 政治と経済の中心地を分けることは、防衛面で有効の他、政治と経済の癒着を防ぐ意味で重要です。 政治と経済が癒着すると戦争が起こり易くなります。 これは過去の太平洋戦争が顕著な例であり、現在のウクライナ侵攻も政治と経済が癒着していなければ起こっていません。 スイスの大きな街は、チューリッヒの次にジュネーヴ、バーゼルと続き、4番目に大きな街がベルンです。 画像で一番目立つ大きな塔のある建物は、ベルン大聖堂です。塔は高さが100メートルもあり、街のどこからでも目立ってよく見えます。 画像の右側に見える川はアーレ川で、ベルンは1191年、ツェーリンゲン大公のベルトルト5世の時代に、このアーレ川沿いに作られた集落が始まりです。 ベルン旧市街は、歴史ある街としてユネスコの世界遺産に登録されています。 ベルンという名前の語源は熊で、それが元で熊が市の紋章に描かれています。
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イタリア スコッラーノのルミナリエ(ピアノ オリジナル曲)
南イタリアにある人口約7千人の小さな町スコッラーノのルミナリエをテーマにしたピアノ独奏の自作曲です。 スコッラーノは、田舎町で鉄道も通っておらず、車でないと行けないような場所ですが、静かで自然豊かなところです。 しかし、画像の様に素晴らしいルミナリエを施した夏祭りが開催されることで有名です。 因みに、ルミナリエとはイタリア語で電飾を差し、英語のイルミネーションと同じ意味です。 イルミネーション(ルミナリエ)と言えば、日本では冬のイメージですが、イタリアでは夏のお祭りでも見ることが出来ます。 夏に電飾というと暑苦しいと思いがちですが、日本の花火も同じ様な意味で夏の夜空を飾る為に打ち上げますので、単に思い込み、思い違いの様です。
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チェスキー・クルムロフの初夏(オリジナルピアノ曲)
チェスキー・クルムロフは、チェコ共和国に在る観光地として有名な町で、クルムロフ城等の歴史ある建物が見所です。 小さな町ですが、ユネスコの世界遺産に登録されています。高台から眺めるチェスキー・クルムロフの景色は、湾曲するモルダウ川、カラフルな家々、街を囲む緑が画像の通り素晴らしく、目を奪われます。 町の名前の由来ですが、チェスキーは、チェコ語でボヘミア地方を指し、クルムロフは川の湾曲にある湿地を意味し、ドイツ語のクルマウが語源です。 その為、チェスキー・クルムロフは、100年程前までドイツ語で、モルダウ川の湿地を意味するクルマウ・アン・デア・モルダウと呼ばれていました。 毎年6月には、この地に由縁のある貴族ローゼンベルク家の紋章から名付けられたバラ祭が開催されています。 町の起こりは神聖ローマ帝国領邦ボヘミア王国の時代に遡り、13世紀後半からモルダウ川沿いの商路の経由地として町が築かれました。 14世紀初頭にチェスキー・クルムロフは、ボヘミア地方の有力貴族であったローゼンベルク家の領地になりました。 それ以降、手工業と交易が盛んになり、16世紀にルネサンス様式の建物が数多く建てられ、色鮮やかな街に変わります。 その後、城はバロック様式に改築、後に有名となるバロック劇場が城内に完成します。 しかし、産業革命時に鉄道が通らず工業都市化しなかった為、過疎化へと向かいます。 チェスキー・クルムロフはドイツ語が公用語で、ドイツ系住民とチェコ系住民は共存し19世紀迄は大きな民族紛争は生じませんでした。 しかし19世紀後半には、オーストリア・ハンガリー帝国に併合されると次第に、民族主義が帝国全土を揺るがすようになり、チェスキー・クルムロフもその例外ではなく、公共施設がドイツ系とチェコ系に分離します。 オーストリア・ハンガリー帝国が第一次世界大戦の敗戦で崩壊するとチェコスロバキア領となり、1920年、この時に公式名称がチェスキー・クルムロフに定められています。 第一次世界大戦以降、チェコスロバキアでは少数派であったドイツ系住民の不満が高揚し、アドルフ・ヒトラーがズデーテン地方を併合する口実になります。 これでチェスキー・クルムロフはドイツ領となり、ナチス・ドイツ統治下でドイツ軍により多くの建造物が破壊されました。 1945年、ドイツは第二次世界大戦に敗北し、チェスキー・クルムロフは、独立を回復したチェコスロバキアに復帰しました。 チェスキー・クルムロフの住民はドイツ系が多数であり、それらの人々が殆ど居なくなった結果、チェスキー・クルムロフの民家の多くが空き家となりました。 ようやく歴史的建造物が補修されるようになったのは、プラハの春が訪れた1960年代後半以降でした。
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