チェスキー・クルムロフの初夏(オリジナルピアノ曲)

チェスキー・クルムロフは、チェコ共和国に在る観光地として有名な町で、クルムロフ城等の歴史ある建物が見所です。

小さな町ですが、ユネスコの世界遺産に登録されています。高台から眺めるチェスキー・クルムロフの景色は、湾曲するモルダウ川、カラフルな家々、街を囲む緑が画像の通り素晴らしく、目を奪われます。

町の名前の由来ですが、チェスキーは、チェコ語でボヘミア地方を指し、クルムロフは川の湾曲にある湿地を意味し、ドイツ語のクルマウが語源です。

その為、チェスキー・クルムロフは、100年程前までドイツ語で、モルダウ川の湿地を意味するクルマウ・アン・デア・モルダウと呼ばれていました。

毎年6月には、この地に由縁のある貴族ローゼンベルク家の紋章から名付けられたバラ祭が開催されています。

町の起こりは神聖ローマ帝国領邦ボヘミア王国の時代に遡り、13世紀後半からモルダウ川沿いの商路の経由地として町が築かれました。

14世紀初頭にチェスキー・クルムロフは、ボヘミア地方の有力貴族であったローゼンベルク家の領地になりました。

それ以降、手工業と交易が盛んになり、16世紀にルネサンス様式の建物が数多く建てられ、色鮮やかな街に変わります。

その後、城はバロック様式に改築、後に有名となるバロック劇場が城内に完成します。

しかし、産業革命時に鉄道が通らず工業都市化しなかった為、過疎化へと向かいます。

チェスキー・クルムロフはドイツ語が公用語で、ドイツ系住民とチェコ系住民は共存し19世紀迄は大きな民族紛争は生じませんでした。

しかし19世紀後半には、オーストリア・ハンガリー帝国に併合されると次第に、民族主義が帝国全土を揺るがすようになり、チェスキー・クルムロフもその例外ではなく、公共施設がドイツ系とチェコ系に分離します。

オーストリア・ハンガリー帝国が第一次世界大戦の敗戦で崩壊するとチェコスロバキア領となり、1920年、この時に公式名称がチェスキー・クルムロフに定められています。

第一次世界大戦以降、チェコスロバキアでは少数派であったドイツ系住民の不満が高揚し、アドルフ・ヒトラーがズデーテン地方を併合する口実になります。

これでチェスキー・クルムロフはドイツ領となり、ナチス・ドイツ統治下でドイツ軍により多くの建造物が破壊されました。

1945年、ドイツは第二次世界大戦に敗北し、チェスキー・クルムロフは、独立を回復したチェコスロバキアに復帰しました。

チェスキー・クルムロフの住民はドイツ系が多数であり、それらの人々が殆ど居なくなった結果、チェスキー・クルムロフの民家の多くが空き家となりました。

ようやく歴史的建造物が補修されるようになったのは、プラハの春が訪れた1960年代後半以降でした。

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