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来たるべき民主主義とジャック・デリダ(上)

飽きたので下が執筆される予定はありません

来たるべき民主主義とジャック・デリダ

上有住 れい        


1. はじめに


 そして私が「来たるべき民主主義(la démocratie à venir)」と言ったとき、それは民主主義は明日には実現されるだろうという意味ではありませんし、未来の民主主義のことを言っているのでもありません。むしろそれは、メシア的な瞬間に「それは到来するかもしれない(ça peut venir)」という約束の消去不可能性を承認することを本質とするような、民主主義に関する参加があるという意味なのです。未来があります(Il y a à venir)。来たるべきなにものかがあるのです(Il y a de l‛avenir)。それが起こるかもしれない......それは起こるかもしれない、そして約束することで私は、未来を開くか未来を開かれたままにしておくのです。

『脱構築とプラグマティズム』[i]



 来たるべき《à-venir》。それは未来(avenir)であり、なにものかが来たる(-à venir, -to come)ということ、来たるべきなにものかがあるということ(il y a quelque chose à venir)であり、そして、その来たるべきもの(chose-à-venir)の名である。デリダの脱構築の思想は、とくに後期において、脱構築を可能にする脱構築不可能なもの、そして未来における現前や脱構築、あらゆる決定が不可能で、他者の到来としての〈出来事〉を条件づける「不可能なもの(l‛impossible)」へと向かった。同時に、この「不可能なもの」の時間性として〈来たるべき〉も一貫して後期デリダの問題となる。「来たるべきもの」は、単にそれが未来において起こるだろうということは意味せず、期待することもできない。それは通常の時間性のあり方とは異質であり、いずれ現在になる時間としての未来や、つねに我々より先にある時間としての相対的な未来とは区別され、経験的な時間の次元の延長として理解されることもできず、そして目的論的終末における最終的審級として現れるようなものでもない。来たるべきものが置かれるのは現前することのない未来とはいえ、それは「決定不可能な他者の経験」としてある他なく、ヘーゲルのような歴史観における特定の目的=終末(テロス)として、すなわちわれわれが向かうべき一種の理想形という意味での目的として捉えてしまうのならば、それは予測や判断を下すことのでき、いずれかは実現することのできる「可能なもの」の次元に堕してしまう。「来たるべき」とは何かが来たることを告げるが、いまにおいてはいまだ現前してはいないようなある種の時間にあるものであり、そして脱構築可能なものを可能にしている当のものである。この「来たるべきもの」の中でも、デリダが繰り返しその名を取り上げたのが「来たるべき民主主義(la démocratie à venir)」である。「来たるべき民主主義」があるということ、あるいは民主主義が来たるべきものであるということは1989年の『法の力』から述べられてきたことであったが、この「来たるべき民主主義」が具体的に語られることになるのは2003年の『ならず者たち』である。『他の岬』、『マルクスの亡霊たち』、『友愛のポリティクス』といった著作や、『脱構築とプラグマティズム』、『テロルの時代と哲学の使命』といった対談において民主主義が主題化される中で、この「来たるべきもの」としての民主主義は彼の晩年の思想において特別な地位を占めていたと言える。

ところで、デリダはこの他者の到来をメシア的瞬間と表現し、不可能な、到来すべき者たち(arrivants)のことを「メシア的なもの」とも呼んだ。このことが、彼の読者によって、後期デリダの思想に倫理的あるいは宗教的な転回があったと主張されることを決定的にしてしまう。即ち、われわれが把握しきることのできない他者性から、まったき他者を導き出し、いわばメシアとして──それが普遍化された構造として特定の宗教とは区別される、「メシアニズムなきメシア的なもの」とはいえ──絶対的他者の導入による最終的解決を、宗教的な地平(時空間)において、待望する思想としての理解である。このような理解に基づいて様々な批判がデリダに投げかけられることとなった。ひとつにはこのようなメシア的時間の〈出来事〉が、一神教における救済のように、永遠の未来にまで実現が先延ばしされることによっての批判があったし、またひとつには、われわれの外部にある他者の介入によってわれわれとは無関係に解決されるという他律性への批判があった。このような批判のされ方に対していくつかの応答がある。J・D・カプートは、メシア的なものとまったき他者を両義的に唱え、一方ではいまここにおいて正義をもたらすために決定することを迫る誘惑として、いまにおける決定に切迫性を与え、正義を命じ、一方では正義は決して現実にはなりえないことを認めるという義務をわれわれに課すというあり方で、「いま」にかかわる存在者としての側面を描き出す。こうしてカプートは、脱構築が正義の実現を遅滞させようとするものではなく、われわれが未来をただ手放しに待つだけではないことを明らかにする[ii]。あるいは、シャンタル・ムフが述べるように、「来たるべき民主主義」という言葉が、多元的民主主義が調和と和解に至ることのできないことを指していると受け止め、ヘゲモニーの結果に過ぎない合意を特権化することを拒み葛藤や対立を排除しないことをいまわれわれに要求する定言命法として脱構築とアポリアの経験を理解するあり方がある[iii]。

しかし、デリダのこのような理解は果たして正しいのだろうか。「来たるべき民主主義」をある未来において理解すること、あるいは単にどこにもない一つの概念として捉えることは可能なのだろうか。「来たるべき民主主義」の居場所について、デリダは言う。「それは今ここで起こることであり、私がいつも現前と区別しようとしている今ここで起こるのです……私に現前していなくても今ここであるものが存在しているのです[iv]」デリダは来たるべきものという未来へ結びついた名のいまにおける切迫を語る。いまと未来、この二つの時間性はどのようにして一つのものに関係するのだろうか。現前と異なるいまとは何か。われわれは、いまにおいて来たるべき民主主義を呼び出すべきだというデリダの訴えから再び始めることができるだろう。

本稿では、デリダの「来たるべき民主主義」について、これまでの定式化を検討しながら、自己免疫性の概念とともにその布置を再び明らかにすることに取り組み、それによって二つの「来たるべき民主主義」についての典型的な解釈、「メシア的なもの」としての解釈と「統制的理念」としての解釈の妥当性の検討に取り組む。そのためにまずは、不可能なものと可能なものの配置についてみることから始めたい。



2. 不─可能なもの、あるいは〈来たるべき〉 

 『法の力』においてデリダは法/権利(droit)と正義を対比させる。まず正義は現実にはない。正義が現実にあるためには、歴史的・実定的な法/権利としての明確なすがたを取らなくてはならない。正義が現れるためには、法/権利として執行され/力あらしめられ(enforce)る必要がある。しかし、最初の法/権利を正義にかなうものとして創出し、基礎づける力、行為遂行的な実力行使はいかなる基礎も持ちえない暴力となる。法/権利を基礎づける権威の起源や根源的暴力は、それが創設する当の法の力(正義にかなうとされた力)に拠ることはできないがゆえに、それ自身にしか根拠を持たない。この暴力は合法的/非合法的であるかや、正義にかなう/正義にかなっていないかと問うことができない。なぜならこの法を創設する暴力は言わすもがな法/権利に先立ち、正義に力をあらしめるものであり正義にかなうことのできる力としての法/権利に先立つから、合法(legal)であるとも正統(legitimate)であるとも問うことができない。もしこの法/権利の基礎(そしてそれは言葉としての行為遂行の成功)が先立つさまざまな条件(規則・協約とその解釈)を前提にするとしても、その当の諸条件の起源についてこの基礎付けの限界──デリダはこれを「神秘的限界」とよぶ──に到達する[v]。ここで明らかになるように、正義は(法/権利という形でしか)現実に現れることができないし、法/権利はいかなる形でも正当化できないような、正義の代補物にすぎない。法/権利は不在的で二次的なものである。

 いかなる形相を与えられことのなく現前することのない不在の「正義」と、現前するが決して根拠づけられ正当化されることのできない「法/権利」というふたつのものの関係から、次の三つの命題が引き出される。



(1)法/権利(例えば)の脱構築可能性は脱構築を可能にする

(2)正義の脱構築不可能性もまた脱構築を可能にし、さらには脱構築と混じり合う。

(3)結論。脱構築が起こるのは、正義の脱構築不可能性と法/権利の脱構築可能性とを分かつ両者の間隙においてである。脱構築は、不可能なものの経験として可能である。すなわち、正義は現実存在していないけれども、また現前している/現にそこにある(présent)わけでもない──いまだに現前していない、またはこれまで一度も現前したことがない──けれども、それでもやはり正義は存在する(il y a)という場合において、脱構築は可能である。[vi](『法の力』) (傍点は原文ママ)

 


  法/権利は、解釈し変革する事のできる様々なテクストを基礎に構築されており、そしてその最後の基礎は基礎付けされていないがゆえに、構築可能であり、脱構築可能である。また法/権利は協約と自然の対立(自然の権利としてのピュシス、人間の合意としてのノモス)を超え出ている──人間による決定以前からある自然の正義の実現のために法/権利は要請されるが、同時に定められた法/権利は代補として正義より過剰であり、また正義の実現として不足である──かぎりにおいて法/権利は脱構築可能である(1)。正義それ自体は、もしそのようなものが現実に存在するのならば、人為としての法/権利のかなたにあり、そのために脱構築しえない。しかしそもそも正義が脱構築可能であったならば、つまり正義がそれ自体として現前することが可能であったならば、そもそも人による法の創設自体が無用になり、したがってそもそも脱構築されるものが存在しなくなるだろう(2)。そしてこれらのことからデリダは言う。「すなわち、一方では法/権利は、あくまでも正義の名において自分を押し及ぼすのだと主張するし、他方では正義としても、実行に移さねばならない何らかの法/権利の中に身を落ち着かせねばならないこの法/権利は実行に移されねばならない(構成され、適用されねばならない)──力によって。つまりそれは「執行され/力あらしめられ」ねばならない。脱構築は、常に両者の合間にあり、両者の間を行き来する」(デリダ)[vii](3)。

 デリダはこれら三つの命題によって法/権利と正義の間の脱構築を明らかにするにとどまらずにさらに進んで、命題を次のような形で一般化する。



正義という未知数Xを置き換えたり、翻訳したり、規定することのできる場合にはすべて、次のように言うことができるはずである。すなわち、脱構築が、不可能なものとして可能であるのは、(脱構築不可能な)Xが存在する(il y a X)かぎりにおいて(その場合において)であり、したがって、(脱構築不可能なもの)が存在する(il y a)かぎりにおいて(その場合において)である、と。(デリダ)[viii]



 彼の言に従うのなら、われわれはそれを可能なものと不可能なもののある種の一般条件とみなしてよいだろう。すなわち法/権利と正義の関係の対応から次のようなことが主張としてありうる。

──「(不)可能なもの」とはそれが当の脱構築を可能にするような脱構築(不)可能なものであり、構築(不)可能なものであり、現前あるいは経験(不)可能なものである。

 この「可能なもの」としての法/権利と「不可能なもの」としての正義の関係は、交換としての贈与と純粋贈与や、現実の歓待と無限の歓待の関係に対応し、そして現実に存在する政体としての「(自由)民主主義」と現前しえない「来たるべき民主主義」の関係に対応するだろう。デリダは本文の中で「法/権利による正義」「正義としての法/権利」を何度か口にする。しかしそれは正義と対比される正義であり、正義それ自体ではありえない。正義は法/権利として、法/権利に内在してしかありえないが、法/権利の正義は常に正義それ自体ではありえず、よって内部の正義によって法/権利は批判される。単なる二項対立を超え、代補として内外の境を侵犯し解体する「不可能なもの」と「可能なもの」のペアリングが、いわば脱構築の場の条件である。しかしこれだけで法/権利と正義の区別が十分に片づけられたとは言えない。続けてデリダは言う。

 正義への意志や欲望がアポリアの経験でない構造を持つ正義を求める場合、それが正義への正当な訴えかけである見込みは全くない。というのも、規則を与えるある判断に従って、規則を個別のケースに平穏に適用するとき、法/権利に関する損得勘定はついているが、正義に関する損得感情は全くついていないと考えられるからだ。法/権利は正義ではない。法/権利は計算の作用する場であるが、正義とはそれを計算することの不可能なものである。正義は計算不可能なものについて計算するよう要求する、というのは、正義にかなうものかそれとも正義にかなわないものかの決断に規則が何の保証も与えることのできないさまざまな瞬間において避けて通れない、決定不可能なものについて決定することを要求する。たしかに、法/権利が少しでもあることは正義にかなうことである。しかし、既にある法/権利に従って、その自動的な適用によって判断を下すとき、その判断は正義とは隔たっている。人はそのとき、合法であろうとする意志はあれど正統であろうとする意志を持たず、また確認したように法/権利は原初の地点において正義とは隔たってしまっている。人が本当に正義への意志を持つといえるのは、法/権利の外において、あるいは法/権利の原点に遡り規則の体系を一度留保し、規則を自ら再発明することにおいて、決断を下すときに他ならない。しかしその決断は同時に正義ではない。正義は、決断のできないものへの決断という不可能なものを求めるという意味においてアポリアの経験を要求する。正義は不可能なものの経験、経験しえないものの経験である。正義は不可能なものの経験、経験しえないものの経験である。

 デリダはここで正義がもたらすアポリアの一つとして、知識の地平を遮断する切迫性を挙げる[ix]。つまり、正義は現前させることがまだどんなに不可能であっても待ってはくれない。正義にかなう決断は今ここにおいてなされる必要がある。決断を正義にかなうようにすることのできる情報や知識を無限に集めることを正義は許さない。決断の瞬間は、切迫によって熟慮や反省の中断としてしかなく、無知と無規則という闇の中を進まねばならない決断である。決断は構造上有限なものになる。この切迫という正義の構造こそが、正義を待望という地平──統制的理念やメシアの到来のような、開けの「限界」──とは無縁なものにしている。そしてこの構造が、他者の到来へと開かれることを約束するのだ。というのも、正義は、法/権利や計算といった規定可能なものを超出するが、しかし同時に計算不可能な正義は計算するように命令する。計算不可能なものと計算可能なものとの関係を妥結するよう要請する。そしてこの命令は、それまで決定されていたことを再び計算し、解釈しなおし、その定められていた境界を定め直すよう要請する。それによってわれわれは、道徳・政治・法/権利といった計算可能なものの領域の彼方にまで計算を押し及ばさねばならない。国内/国際、公的/私的といった区別、ふたつの空間の区別のかなたにまで押し及ぼさねばならない。そういった区別を再び解釈し、措定しなおすだけでなく、それらの対立のさらに向こうに別の領域を絶えず開かなければならない。このことによって、デリダが言うように脱構築とは正義であり[x]、正義は他への開かれである。



「しかしまさしくこのために、正義にはたぶん(peut-être)何らかの未来(avenir)があるのだ。この未来とはまさしくこれからやって来るということ(a-venir)であり、これからやってくるということは将来(futur)と厳密に区別する必要がある。将来には開かれた部分がなくなっている。開かれた部分とはつまり、他者(これからやってくるものだ)がやってくることであり、他者がやってくることなしには正義はないのである。そしてまた将来は、現在を常に再現することができる。すなわち将来は、将来の現在として、現在を修正した形式によって自らを知らしめ、あるいは自分を現前させる。正義は、これからやって来る(à venir)という状態のままにある[xi]」(『法の力』)



正義はこれからやって来るさまざまな出来事からなる次元を開く、それによって、正義は法/権利や政治を変革し基礎づけ直すための──脱構築するための──道を開く。

 しかし、ここでは直ちに受け入れられない問題がいくつかある。まず切迫と未来(avenir)という時間の関係である。デリダは正義の不可能性が決断を先送りにさせるものではないことを強調しながら、「いまここ」で決断を余儀なくされることの説明として、「切迫」という呼びかけを導入する。しかし、決断と他への開かれが「いまここ」であるのなら、(たとえそれは現在において完結せずに繰り返されていくものであれ)なぜ「これから」を語らねばならなかったのか、あるいは、やってくることはこれからなのか。

 そしてデリダは、「正義とは、絶対的他性の経験である[xii]」と語るが、デリダがこのすぐ後に正義の開かれの例として出すのは奴隷、女性、動物性といった現実的他者である。絶対的他者それ自体の現前がありえないにせよ、現実的他者やその総和は絶対的他者にはならないだろう。たとえその訪れる他者は、われわれがそれについてなんであるか語れないようなものであり、なおかつ予期しない訪れであるとしても、具体的他者である。このとき、デリダが言う「正義はこれからやって来るという状態のままにある」というのは、ある種の目的論的終末、あるいはカント的な統制的理念のように聞こえる。というのはすなわち、さまざまな具体的他者の到来の積み重ねと、計算の絶え間ない外への波及の先に、最終的審級として、さまざまな具体的他者を包摂する絶対的他性に到達する、と。もちろん絶対的他性や他性としての正義やその時間としての来たるべき未来(avenir)はあくまで仮想的な理念として想定しうるだけであり、それは現実に訪れることはなく、たとえば無限の過程の先に、ひとつの結末として論理的あるいは概念的に想定しうるものである。それはまるで、脱構築という歴史の過程が必然的に到達する結果のように聞こえる。しかし、デリダはカント的な統制的理念として脱構築を把握することを一貫して否定している。

 ここではさしあたって次のことを確認してよいだろう。というのは、ここまでの議論における法/権利と正義を、先ほどと同様、可能なものと不可能なものと読み替えて、いくつかの結論を引き出すことができるように思えるからだ。

 

すなわち、不可能なものとは、それに対する決定の不可能なものであり、それに基づいて決定することの不可能なものである。

 不可能なものは同時に計算不可能なものである。

 不可能なものは同時に未規定なものである。

 しかし不可能なものは決定不可能なものについて決定することをいまここで要求する。

 不可能なものは不可能なものの経験を要求する。

 不可能なものの経験は絶対的他性の経験であり、不可能なものの構造が他への開かれを約束する。

 

3. ランシエールによるデリダ

 メシア的で倫理的なデリダの理解の典型として、私はランシエールによる批判を取り上げることができる。ここでは、ランシエールがデリダの民主主義論を批判しながら自らの民主主義について語った、ロンドン大学バークベック・カレッジにおける連続講演「追悼デリダ」における「民主主義は何かを意味するのか」についてみていこう[xiii]。

 ランシエールの見方では、デリダは自己免疫という概念を通じて、民主主義が自己のうちに持つ権力に執着し、依然他者性を欠くものであると見做しており、この自己閉塞した民主主義─現実において「自由民主主義」とよばれるもの──に対置して「来たるべき民主主義」という理想を語っていると考えている。それに対してランシエールは、他者性は政治(民主制)の内部にこそ見いだされるものであり、ある政治的共同体の内/外という対立の場こそが政治であり、政治的なものの境界を絶えず更新することが政治の存在論的条件であると考える。ランシエールにおいて、政治は民主主義政体というひとつの共同体の境界における対立そのものであり、民主主義にはこの対立が内在的であるから、内部に自己に矛盾する他者性を有するのはその一つの条件ということになる。


「デリダの見方では、どちらの場合にも、民主主義はアウトスあるいは自己の検討されざる権力になお執着している。民主主義が欠いているのは他者性である。それは外部から到来しなければならない。デリダは、コーラ〔場〕の純粋な受動性から他者あるいは新参者──それらを包含することが「来たるべき民主主義」の地平を定める──へと糸を通すことで、自己の円環を壊すことに着手するのである。

 私の異論は非常に単純なものである。他者性は外部から政治へと到来してはならない。政治はそれ自身の他者性をもち、それ自身の異質性原理をもつ[xiv]」


 ランシエールは、彼がかつてこれまで繰り返されてきたと考える現実的民主主義と形式的民主主義の対立に、つまり平等や自由が達成された本来あるべき民主主義と現実にある不完全な民主主義の対立、「現れ〔=外見〕と現実のあいだの対立[xv]」になぞらえてデリダの議論を理解している。その理解の上で、彼は、「来たるべき民主主義」を他者への無限の尊重という倫理的命令の果たされる「解放の地平」であると述べ、さらにそれがある特殊な時間性に依拠していることを主張する。すなわち、他者(性)の無限の尊重、開かれ、応答は実現することのないものであるから、それを含む来たるべき民主主義は「決して「それ自身に到達」すること、それ自身に追いつくことができない民主主義[xvi]」であり、来たるべき民主主義の訪れる時間は決して果たされることがない。しかし、果たされないからこそむしろ「守られるべき約束の時間」である。来たるべき民主主義は、まだ見ぬ他者への無限の尊重、受け入れであると同時に、自己への閉塞を打破し、理想的な民主主義が実現されるひとつの救済でもある。来たるべき民主主義はそのような他者が訪れるというひとつのメシア的約束であり、そのような救済が訪れると約束されるひとつのメシア的時間なのである。

 ここでランシエールが批判するのは、デリダの倫理的な民主主義の概念化が徹底的に他律的であるということである。ランシエールによればデリダは、メシア的な約束を〈法〉への服従に対比させ、他者(無限者)や出来事(他者の到来)に対する一切の先取的同定を避けている。このような絶対的な他者の訪れがいつどのように起こるかについてわれわれは述べることができない。それに対し民主主義(デモクラシー)とは、民衆(デモス)が代わるがわる自らを統治するという自律に基礎づけられているものであり、出来事による打開の他律性とは対立する。また、他者に対する一切の限定を斥ける脱構築は、最終的に、「他なるものを受け入れよ」という、啓蒙的理性や自由の精神といったものに根拠づけられた軍事作戦を支えてきた根底的な他律の法を主張するか、〈他者〉へのあらゆる先取的同定を抹消するという無限の任務を強調するかのいずれかを選ばざるを得なくなるというアポリアに至る[xvii]。したがってランシエールは、今日にありうるべき新しい民主主義をデリダのような「〈出来事〉あるいはメシアへの無限の期待という形式」によって実現することを拒む。他者の絶対性、神の至高性を経由して得られる他者への尊重から産まれる倫理によって神学的にデモクラシーを描き出すことを拒む。それは〈政治的なもの〉においては無力だからだ。

 しかし、このような伝統的なランシエールの理解には疑問が投げかけられざるをえない。「来たるべき(à-venir)」をある未来、実現はされないが約束はされうるようなある異質な未来、いつの日にか救済として到来するというメシア的な時間性として理解することは正当だろうか?「来たるべき民主主義」とは救済なのか?他者はデリダの唱える民主主義において外在的なものなのだろうか?「自由民主主義」は来たるべき民主主義とどのように違うのだろうか?来たるべき民主主義とは新しい民主主義のあり方なのか?「他者への開かれ」はある無限性や絶対性に紐づけられていることによって決して実現しえないものなのだろうか?


そして、現実の政体が正統であることのの根拠をそこに求めるところの(来たるべき)民主主義と、その不完全な実現としての現実の民主主義政体、自由民主主義の関係を正義と法/権利との関係にみるとすれば、この不可能なものを来たるべき民主主義と読み替えることができるだろう。

 ここまで、不可能なものと〈来たるべき〉という語の布置から、来たるべき民主主義について接近してきた。

 ところで、この来たるべき民主主義にはもっぱらふたつの解釈がある。

 

 ありうるふたつの解釈。

 ①メシア的他者の到来。決して現前しない未来に、理想的な世界が訪れるというもの。レヴィナスの絶対的な他者になぞらえられる-カプート

 ②統制的理念的なもの。われわれがそこに向かうべき理想世界。現実的に可能になることは難しいが、「可能的なもの」の次元にある。よって現実にある、現前している全ての世界がそれによって可能になる。この概念が含意しているのは、「来たるべきもの」に何らかの述辞が与えられて、特定されており、その「来たるべき」という地点からの隔たりを問うことができるということ。たしかに、「完全無欠」な共同体の想定は、現前しているものの批判を可能にする。なんであれ、現前しているということは完全ではないことと等価であるとデリダにおいてはみなされている。しかしながら、その批判に内容を持たせるのであれば、つまりある政体と別の政体のどちらがより理念的であるかを問うことができないのならば、その批判に何の意味があるだろうか。



[i] ジャック・デリダ「脱構築とプラグマティズムについての考察」 『脱構築とプラグマティズム 来たるべき民主主義』pp.159 C.ムフ編, J.デリダ他, 青木隆嘉訳, 2002年 法政大学出版局

[ii] ジョン・D・カプート「注釈 脱構築を一言で」 『デリダとの対話──脱構築入門』pp.276-278ジャック・デリダ, ジョン・D・カプート編, 高橋徹他訳, 2004年 法政大学出版局

[iii] シャンタル・ムフ「脱構築およびプラグマティズムと民主政治」 『脱構築とプラグマティズム 来たるべき民主主義』pp.20,21 C.ムフ編, J.デリダ他, 青木隆嘉訳, 2002年 法政大学出版局

[iv] ジャック・デリダ, 前掲書, 2002年 pp.159

[v] ジャック・デリダ, 堅田研一訳, 『法の力』pp.24-33 1999年 法政大学出版局

[vi] 前掲書、pp.35

[vii] 前掲書、pp.54

[viii] 前掲書、pp.35

[ix] 前掲書、pp.66-68

[x] 前掲書、pp.35

[xi] 前掲書、pp.71

[xii] 前掲書、pp.71-72

[xiii] ジャック・ランシエール「民主主義は何かを意味するのか」 コスタス・ドゥージナス編 藤本一勇監訳 澤里・茂野訳『来たるべきデリダ : 連続講演「追悼デリダ」の記録』 2007年 明石書店

[xiv] 前掲書、pp.146, 147

[xv] 前掲書、pp.150

[xvi] 前掲書、pp.158

[xvii] 前掲書、pp.160ff.

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