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【I-019】父のことば

私は、小学二年生の時に父から聞いた言葉を今でも覚えています。
それは今から、四十年以上前のことですが、その時の光景と共にはっきり
と記憶しています。

子育て全ては母親任せで、仕事人間だった父は、‘イクメン’という
言葉とは正反対の昭和的イメージの人でした。昭和的というと、誤解を
生むかも知れませんが、男は外で仕事をして、女は家庭を守る。家では
あまり多くを語らず、怒る時はもの凄く怖い、みたいな感じが私の持つ
イメージです。幼少期に見ていたテレビドラマに出てくる父親が皆こんな
印象だったので、その影響が大きいのかも知れません。

父は、朝早くに家を出て、夜は八時頃に帰宅していました。当時休みは
日曜日だけでしたが、ほとんどゴルフに行っていたので、一緒にいる時間
そのものが少なかったです。父とくだらない事を言いながら、それこそ
笑いながら話をした記憶はほとんどありません。毎日、父が帰宅後に
必要最低限の会話を交わす、そんな感じでした。子供ながらに、そんなもの
だと思っていました。そんな父からの言葉なので余計に強く印象に残って
いるのだと思います。

私が小学二年生の時です。季節こそ忘れましたが、ある日曜日に当時
東京は神田にあった交通博物館に連れて行ってもらいました。
父と二人での外出は、これを含めて数える程しかありません。
交通博物館は、秋葉原駅から行くのが近いですが、その時はひとつ手前の
御茶ノ水駅で降りました。中央線の線路沿いに坂を下って行けば着くので、
たいした距離ではありません。

その途中の高架下に段ボールを敷いて横たわる男性がいました。今では
ホームレスということになるのでしょうが、当時はその言葉はありません。
視界に入れば、子供でも気になりますし、あまり良い気分はしません。
精一杯見て見ぬふりをして、その場を通り過ぎようとした時に、それまで
静かだった父が言ったのです。

「ちゃんと働かないとだめだぞ。」

父は私を見る訳でもなく、前を見て、静かに低い声で言いました。
その迫力というか説得力というか、私はただ「はい。」と応えるのが
やっとでした。

「ちゃんと働く」。

父にはこの自覚と実際に働いてきたというプライドがあったのでしょう。
家族を養ってきた、家族を守ってきた男の自信と言うのでしょうか、
あの人とは違うのだ、ということが十分に伝わってきました。制度上では
ホームレスは存在しないというのが役所の見解です。働く意思があれば、
それをサポートする仕組みは色々あります。そういったことも放棄して、
あの状態で過ごしていることに父は腹立たしく感じたのかも知れません。

人には様々な事情があります。高架下の人にも何らかの事情があったの
でしょう。一方からの正論が必ずしも正しくないこともあります。
しかし、父の目には許容できない状態に見えたに違いありません。

「はい。」と応えて程なく交通博物館に着きました。交通博物館には、
特急の食堂車を模したレストランがありました。列車で遠出をする機会
などなかったので、食堂車は憧れでした。せめてその雰囲気だけでも
味わいたいと思い、父にせがみましたが、帰ったらすぐに夕食だ、
という理由であっさり却下されました。これもはっきりと記憶しています。

子供の頃の反動で、大人になってから当時欲しかった玩具を買って楽しむと
いう男性が増えているようですが、私は父との楽しい思い出が少なかった
ので、息子を連れて色んな所へ外出しています。お笑い芸人の真似をして
笑い転げています。友達のような感覚で過ごしています。息子も色々と
話してくれます。

ある時、そんな様子を見かねた父が「構い過ぎは良くないぞ」と言った
ことがありましたが、「お父さんの分までやっているんだ」と憎まれ口で
返しました。

そんな父は数年前に亡くなりました。辛抱強い性格のために癌であった
にも関わらず、発見が遅れ、病院に行った時はもはや手遅れでした。
病院に行ってから、僅か二か月で逝ってしまいました。

先日息子と外出した際、期せずして四十年前の高架下と同じような状況に
出くわしました。息子に目をやると、何か感じている様子でした。
咄嗟に私は、父からの言葉を伝えました。

状況を理解した様子の息子は、「分かりました。」と小さく返事をしました。

現代は、‘普通に働く’ことが難しい社会になってしまった感じがします。
普通でいること自体が難しいといった方がいいかも知れません。

そもそも普通って何だろう?

世の中は常に変化しています。その変化を理解しつつ、まずは自分が
楽しくいられること。それを踏まえて、働くことが出来れば良いと思います。




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