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【P-004】マーケティングは昭和のプロレスに学んだ(3)

モノは物語で売れ!的なマーケティングの書籍を多く目にしますが、
この手法はプロレスでは昔から当たり前のようにありました。
昭和のプロレスを盛り上げたのは、間違いなく団体や選手を取り巻く
‘物語’でした。その辺を整理したいと思います。

善玉対悪玉という構図

力道山が蔵前国技館で3日間のプロレス興行を行ったのが、1954年2月。
この時点で、今に続く「日本人対外国人」という対立図式がありました。
敗戦から9年。日本人の中に残っていた敗戦や外国人(主にアメリカ人)
へのコンプレックスは、相当なものであったと想像します。
力道山の抜群のビジネスセンスは、この日本人の心の隙間をキッチリと
埋めたのです。観客は力道山に感情移入し、力道山が勝利するたびに、
熱狂したのです。日本が善で、外国人が悪という図式です。
この図式は、アメリカでは全く逆になります。日系のレスラーは
‘トージョー’や‘ヤマモト’等をリングネームにつけて、
アメリカ人レスラーの引き立て役になっていました。
因みに‘トージョー’は、東条英機、‘ヤマモト’は山本五十六に由来
しています。アメリカ人からすれば、どちらも憎らしい敵(日本軍)の
象徴です。何とも複雑な感じですが、そんな時代だったのです。

日本人レスラーVS外国人レスラーという構図

力道山が編み出した「日本人対外国人」という流れは、その後のプロレス界
のひとつの柱になります。
「まだ見ぬ強豪」というキャッチコピーも、観客をドキドキさせました。
果たして力道山は勝てるのか??今度は負けるのではないか??という
ハラハラ感です。現在より圧倒的に情報が少ない時代です。
見る側の気持ちを煽るには、好都合だったのでしょう。
ウルトラマンVSバルタン星人、巨人VS阪神、与党対野党、対立の図式が
分かりやすいと観る側は、すぐにその世界に入り込めます。

日本人対外国人という構図を大事にしたのが、ジャイアント馬場です。
馬場は、日本プロレスから独立する際、親交の深い外人レスラーに
協力を依頼し、豪華な顔ぶれを揃えて、全日本プロレスを旗揚げします。
アメリカのプロレス団体の権威がまだまだ高かった時代です。特に
‘NWA’が管理するヘビー級のタイトルは、世界最高峰とされていました。
80年代半ばまでは、世のプロレスファンは「NWA世界ヘビー級チャンピオン
がナンバー1だ!」と思っていました。私のその一人でした…。
馬場は、このNWAの権威に徹底的にこだわりました。NWAに加盟し、
何度も日本でタイトルマッチを行いました。自身も挑戦することで、興行の
ウリとし、日本人で初めてベルトを巻きました。いずれも短期ですが
都合3度王者になっています。

アントニオ猪木、苦肉のアイデア

馬場より前にアントニオ猪木は、新日本プロレスを立ち上げました。
馬場のように用意周到に旗揚げした訳ではなく、会社乗っ取りのクーデター
の首謀者とされ、日本プロレスを追われ、仕方なく始めたのです。
猪木も世界の権威にすがりたったのでしょうが、業界内の政治的な背景も
あり、そこは叶いませんでした。旗揚げ当初から、外国人は無名レスラー
ばかりで、興行的にも苦戦を強いられました。

ジャイアント馬場と同じことが出来ない猪木は、違う路線を考えます。
それが‘大物日本人対決’と‘異種格闘技戦’です。
追い込まれた中で生まれたアイデアでしたが、さすがの差別化策です。

1974年、当時の国際プロレスのエースだったストロング小林がフリー
となり、猪木に挑戦を申し込みます。これにより大物日本人選手同士の
対決が実現しました。これは善対善の図式なので、かなりのリスクを
伴います。負けた方の商品価値が下がるからです。
ファンは、純粋にどちらが強いのかを知りたい訳ですが、所属団体から
すれば負け=格下、ということになるので大変です。対決にあたり、
小林は強引に国際プロレスを離れましたが、それでも国際プロレスの
エースということが、すぐになくなる訳ではありません。
結果は、猪木が勝ちます。その後も都合3度対戦しますが、結局小林が
勝つことはなく、そのまま新日本プロレスに入ることになります。
サラリーマン的感覚で言えば、転職に失敗、降格扱いとなってしまいました。(猪木、坂口に次ぐ3番手)
結果として、ファンは国際プロレスを新日本プロレスより格下視すること
になります。猪木は、‘実力日本一’をテーマにさらに進みます。
最初の小林戦(1974年3月)の後、10月には、デビュー戦の相手
(猪木の負け)でもある、兄弟子、大木金太郎とも一騎打ちを行います。
この時点で大木は45歳(1929年生まれ)。32歳で登り調子の猪木の敵
ではなく、猪木が勝ちます。猪木は、着実に実績を重ねていきます。
アントニオ猪木の次なる戦略は1976年から「実力世界一決定戦」と
テレビで特番も組まれた、一連の異種格闘技戦です。この中には、かの
有名なモハメドアリとの一戦も入ります。これらの異種格闘技戦は、現在に
つながる総合格闘技の原点とも言われ、中には‘しょっぱい相手’も
いましたが(笑)、ほとんどが緊張感漂う試合ばかりです。当時の新日本
プロレス、そしてアントニオ猪木が人気だったことも納得です。

団体対抗戦という構図

アントニオ猪木が‘実力日本一’から‘実力世界一決定戦’と進める中、
1975年の年末にジャイアント馬場は「オープン選手権大会」を開催します。
これは他団体の参加もOKというもので、馬場の政治力で集まった人気
外国人レスラーの他、当時一番の老舗団体である国際プロレスからも選手が
参加しました。この当時、何かにつけ馬場に挑戦の意思表示を続けていた
猪木を逆に挑発する意図もあったようですが、共にテレビ局が背後について
おり、ここに猪木が出場することはありませんでした。
このオープン選手権開催前の1975年10月に、ジャイアント馬場は
大木金太郎と一騎打ちを行っています。猪木が大木と戦って勝利してから
約1年後です。
結果は、馬場が6分49秒で大木に勝利。猪木は13分13秒での勝利です。
これは馬場が猪木に対して出した答え、すなわち「私はあなたの半分の
時間で大木を倒しましたよ。だから私の方が強いのではないでしょうか?」
というメッセージとも言われています。そう言われると何だが説得力が
ありますね、馬場さん…。

全日本プロレスは、その後も国際プロレスと交流を続け、1978年2月の
「全日本・国際・韓国全軍激突シリーズ」まで様々に続きました。
対抗戦と言っても、感情むき出しの殺伐とした感じではありませんでした。

ますます増える日本人対決・同門対決という構図

1980年代になると、新しい対立構図(物語)が出てきます。
1981年8月、国際プロレスが14年の歴史に幕を下ろします。会社を
失った所属レスラーは、全日本プロレス、新日本プロレス、海外へと
それぞれの活路を見出します。
中でも、ファンを熱狂させたのが、新日本プロレスに乗り込んだ、
ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇の3人です。ラッシャー木村は、
国際プロレス最後のエース。アントニオ猪木を倒すべく、新日本プロレスの
リングに殴りこんだのです。このリングは、ラッシャー木村たちにとっては、完全にアウェイでした。

アントニオ猪木(善)VS国際プロレス軍(悪)

おのずと善悪の構図になり、興行もテレビの視聴率にも貢献する
盛り上がりとなります。感情むき出しのアントニオ猪木によって、
観客もヒートアップします。激しい試合を重ね、次第にラッシャー木村
たちの鮮度や商品価値は消耗されて行きました…。ラッシャー木村は
第一次UWFの旗揚げに参加した後、活躍の場を全日本プロレスに移します。
最初はジャイアント馬場を敵視していましたが、ある時から馬場を
「アニキ!」とマイクで呼ぶようになりました。
この頃になると、第一線から下がらなければいけなくなり、木村は
コミカルな一面を見せ、会場を沸かすようになりました。馬場も同様で、
自身の衰えを逆手に取るように、現役生活を続けました。

名勝負数え歌

同門対決で有名なのは、新日本プロレスの藤波辰爾と長州力の
「名勝負数え歌」ではないでしょうか。1982年10月8日の後楽園ホール
大会での試合中、メキシコ遠征から帰ったばかりの長州力は、味方である
藤波に突っかかります。
猪木、藤波、長州でトリオを組んでの試合ですが、選手紹介のコールで、
自分が藤波より先だったことに腹を立てます。選手紹介では、格上の
選手が後にコールされるので、なぜ自分が藤波より格下なのだ、
という訳です。それまでの長州は、アマレス五輪代表という鳴り物入り
だったにもかかわらず、パッとしない中堅選手でしたが、このメキシコ
遠征で自信を深めたのか、今までと違いました。試合中に藤波に殴り
かかるなどして、仲間割れに。
そして有名な「お前のかませ犬じゃない!」という主旨の発言をします。
以来、二人は一騎打ちを重ね、これらの試合は名勝負数え歌と呼ばれる
ようになりました。「かませ犬」発言から、長州力は一躍人気レスラーに
なりました。

新日本プロレスで展開された仲たがいによる同門対決。それまで同門
対決は、リーグ戦などではありましたが、それは「普段は仲がいいけど、
今日は試合だから仕方ない」という空気感のものがほとんどでした。
しかし、藤波と長州は敵意むき出し、感情むき出しという状況が伝わって
きたので、それまでにはない感覚に観客は熱狂したのでしょう。

ジャイアント馬場が大事にしてきた「日本人対外国人」という構図も、
かなりマンネリ化していたのも事実なので、この流れを当の馬場も意識
せざるを得なくなってきます。1985年には、新日本を抜けた長州率いる
ジャパンプロレス勢が全日本プロレスのリングで暴れることになります。

これ以降、日本人対決は特別な構図ではなくなり、さらに激しい試合が
展開されて行きます…。

事前に練られたものなのか、はたまた偶発的なものなのか、いずれにしても
プロレスは、常に観客の空気を読んで、心を掴みます。そして面白く展開
していきます。だから、ハマってしまうのです。
昭和のプロレス。今後も分解して、整理して行きたいと思います。


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