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異語り 161 還る

コトガタリ 161 カエル

60代 女性

昔はこの辺りもちょっと歩けばすぐに山の中だった。
鹿もクマも出るのが当たり前で、人間様のほうが山の隅っこに住まわせてもらっている感じ。
とにかく自然が身近にあった。
子どもだって簡単な罠を作って、ウサギやキツネを採ったりしていた。

いつの頃からか道路が伸びてきて家が増えた。
家の場所は変わっていないはずなのに、すぐ裏にあった山が住宅街に変わっていた。
人が増え、夜も明かりが灯り
里が村に、街になっていった。
そして山は山となり、気軽に入れる雰囲気ではなくなってしまった。

昔に比べたら本当に少なくないけれど、それでもたまにキツネや鹿が迷い出てくることがある。
でももう罠で捕まえて食べたりはしなくなった。



家の周りがだいぶに賑やかなってきた頃、祖父が亡くなった。
あまり大きな家ではなかったけれど
「葬儀は家でやる」
と祖母が言い続け、自宅の居間に祭壇が作られた。
昔は居間の窓からは山だけが見えていたが、今は小さな庭と生垣の向こうに屋根が続いている。
祖父の遺影はそんな遠くなった山を眺めているみたいだった。


葬儀の終わった日の夜も、まだ残っていた親戚が遅くまで飲んでいた。
子供だった自分は参加することもなく、
早々に寝床へと追いやられてしまう。


あまりに早く寝たせいか夜中に目が覚めた。
普段ならそのままもう一度寝てしまうところなんだけど、誰かが起きているならと思いトイレに向かった。

電気がついたままの居間で、大人が3人ほど床に転がっていた。
隣のキッチンで祖母が洗い物をしている。
自分もどこか寝ぼけた状態でそんな非日常の風景を「ふーん」と思いながら通り過ぎた。

用を足し終え幾分スッキリした心持ちで再び居間の前は通りかかる。
開けっ放しのカーテン
その向こうの庭に窓からもれた四角い光が当たっている。

カーテン閉めた方がいいのかな?

いつもの言いつけを思い出し、床に転がる大人たちを余計ながら窓に近づいていった。


月もなく、周辺の家の明かりも消えている。
暗い庭。
光の届くギリギリの縁に細い足が見えた。

すぐにその足の上へと影を辿る。

影の中に佇むさらに濃い影

大きく広がった枝葉のようなシルエット

きらりと二つの点が緑色に光った。

「ば、ばあちゃん!」
叫びたいのを堪えて祖母を呼びながらキッチンへ駆け込んだ。
「どうした?」
「庭に」
「庭に?」
「鹿! 鹿がおる!!」

祖母は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにまだ口の開いていない一升瓶を手に居間の窓へと向かった。

バッと窓を開けても鹿はじっとそこにいる。

祖母は裸足のまま庭へ飛び出した。

鹿は驚きもせずにそこにいる。

祖母は深々と鹿に頭を下げると
家と鹿の中間くらいに酒を置いて戻ってきた。

静かに窓を閉め目を閉じ手を合わせ始める。
あっけに取られていた自分も自然と同じように手を合わせていた。

1分……2分か? 5分? いや10分?

なんとなく張りつめていた空気が緩んだ。

ほっと息を吹きながら顔を上げると、鹿も酒もなくなっていた。

「すごいね、こんな庭に鹿が入ってくるなんて久しぶりやね」
ちょっと興奮気味に祖母に話しかけると、
「あれはお迎えじゃ。山の恵みで育った命を迎えに来てくださったんだよ」
そう言ってニッコリと笑顔を浮かべ、また山のほうへ手を合わせて頭を下げた。

「この辺りもだいぶ賑やかになってしまったから心配だったけど、ちゃんと来てくださった。ありがたいありがたい」


祖母達が子供の頃はもっともっと山と里の境界が曖昧だった。
人は食料のほとんど山の恵みに頼っていた。
山に育てられた命は山に還る。
みんなそれが当然として生きてきた。

少しずつ里が山から離れ、
山の物でない食物を口にするようになって、祖父母は不安だったらしい。

できれば、自分たちもあの山に帰りたい、ずっとそう思っていた。
でも言えずにいたのだという。

「お前達はお前達のしたいようにしていいから、できれば私はこの家で送ってちょうだいね」
そう言って笑った。


祖母はその翌年山へ還っていった。

お迎えを目にすることはできなかったが、母が「庭に置いた酒がなくなっていた」と言っていたから、きっとお迎えが来たのだと思う。

父と母は「自分たちはもうあまり山のものも食べていなかったから、きっと山へ行くことはないと思う。あなたたちのやりやすいように送ってくれればいいから」
と言うが、まだまだ元気でチョコチョコ山菜採りに山に入っている。


自分は本当にもう山の物はほとんど口にしていない。
貰った命の元へ還っていくのだとすれば、自分たちはどこへ帰るのだろう。

その地に生き
その地へ還っていく。

そんな先人たちを少し羨ましく思う。

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