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珈琲で豆大福を食べながら、短編小説『豆大福と珈琲』を読む

『豆大福と珈琲』という本を、豆大福と珈琲をお供に読む、という至福の時間を体験しました。ゼロの紙さんに提案されるままに。私の人生にこれ以上の快楽は訪れないんじゃないかと思ったほど、私はこういうことに幸せを感じるんだなあと、この歳になって新たな発見です。変態でしょうか。

こちらが、その図です。

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「コーヒー×読書」の組み合わせが私を幸せにするゴールデンコンビだということは知っていました。それに、甘いもの。豆大福はもともと好きです。でもちょっとだけ奇妙な組み合わせ。それがこの小説の内容に深くかかわってきます。そして何よりもご馳走なのが、片岡氏が豆大福を描写する巧みな日本語表現なのです。

これを読んだら必ず、豆大福を食べたくなります。必ず。

きっかけとなったのが、こちらのゼロの紙さんの記事です。

ゼロさんは、整理していた新聞の切り抜きの中で見つけたこの連載記事につかまりました。

私はゼロさんが抜粋してくれる片岡さんの豆大福描写の表現に雷に打たれたようになり、つかまりました。「これは全文読みたい」とすぐさまAmazonに駆け込んで注文しました。そして本が手元に届くのを、いくつも豆大福を食べながら今か今かと待ちました(先に食べたんかい!笑)。

・・・以下、多分にネタバレを含みます。・・・

ゼロさんが書き抜かれた箇所と被るとは思いますが、私が「うーん」と身悶えした豆大福描写、いきますね。ちなみに、46ページほどの短編小説の中の約4ページが、人生で初めて食べたという豆大福への感動と賞賛に費やされています。

餅による表皮は、内部の餡が透けて見えるような見えないような、陰影に富んだ半透明の、柔らかく静かな、しっとりとした落ち着きそのものとして、端正に待っている。食べられるのを、待っている。
表皮の厚さよりも、豆粒の直径のほうが、わずかに大きい。したがって、そのなかに散っている豆粒によって、餡を包んでいる餅の表皮は、そのぜんたいにわたって、じつに穏やかに、そしてたおやかに、でこぼこしている。表皮の餅に周囲を囲まれたでこぼこのなかで、どの豆も自分の分を心得た諦観のなかにある。その諦観が、これから豆大福を食べようとする人の気持ちを、とらえて離さない。
餅の表皮によって包まれている餡をめぐって、どのような言葉をどう連ねて、どんなふうに言いあらわせば、餡に対する正義をまっとうすることができるのか。(中略)日本語は翻訳の仕事の道具だが、僕の日本語で豆大福のなかの餡を表現しきることは、残念ながら出来ない。
一個の豆大福が僕の体のなかに入り、心の内部においてやがて転換されたもの、それはなにか。それこそが、この豆大福のおいしさであるはずだ。僕の心身の隅々まで静かに行き渡り、そこにしばし落ち着いたもの、それは幸福感だった。

「おいしい」という身体的体験が、心へと転換され、幸福感に変わるという解析は、言われてみるとまさにその通りだと感じるし、ふだん何も考えずにただ感じている「おいしい」という感覚にぴたっとくる適切な表現を与えられて、すがすがしさとともに何度もうなずきました。

主人公も作者も、英語から日本語への翻訳を長年仕事にしている人です。日本語と英語をつねに自在に行き来している人の言葉選びの自由さに驚嘆しました。(小説をこれまで読んでこなかった私なりに、です。私は今さらながら小説と出会って、小説的な表現というものを自分にインプットしようと心がけている最中です。)

もうひとつ食べたい、と僕は心の底から思った。食べろよ、とお茶がけしかけた。

一人で食べている主人公に、なんとお茶がけしかけてくるのか!と。

穏やかさをきわめきると同時に、きめの細かさにおいても頂点に達したような、幸福に満足した気持ちが僕の心と体のあらゆる部分に浸透し、その様子には一分の隙もないのだが、そのことを全く感じさせない、和やかに優しく満ち足りた状態を、いまの自分として認識したその瞬間、僕の全身全霊をつらぬいて、ひとつの閃きが美しく走った。
 三人でいっしょにこの家に住めばいいんだ、という閃きだった。

と、いうふうに、豆大福を食べるシーンから物語は展開していくのですが。

ここまで「豆大福を食べること」に没頭させておいて、いきなり84年もの時代を遡り、なぜ豆大福なのか、3人とは誰と誰のことなのかの説明を始めるのです。

離婚ののち息子を連れて地元に戻っていた幼なじみの女性と、「結婚」をしないまま新しい「家族」のかたちを探っていくという話なのですが。

豆大福は、この幼なじみの女性の実家が営む老舗和菓子屋の看板商品です。

物語の全体を読んでみて、冒頭の4ページにもわたるしつこくて濃厚な豆大福を食べるシーンが必要だったか、適切な効果を演じているのかを考えると、そのくらいおいしかったことの表現として必要だったとも思うし、作者が豆大福について思い切り表現を尽くしてみたかったという個人的な興味も手伝っているように感じられなくもありません。

しかし、豆大福の「おいしさ」が主人公にもたらした「一分の隙もない」「頂点に達したような」「幸福感」が「美しいひらめき」を起こさせたということが、この小説の要になっています。

結婚はせずに、一人一人が独立した個々の人間として一つの家で共同生活を始めよう、という閃きが「なぜ」起こったのか。そこには言及されません。完璧においしい食べ物を食べたことによる化学反応とでも言うように。

なぜ結婚を申し込まなかったのでしょう。彼女を愛していたのか、いなかったのか。背景には、主人公の子どもの頃からの両親との関係や祖父母との関係が大きく影響を与えているのでしょう。まして、彼女は離婚を経験しています。明晰な彼女は主人公の提案の意味をただちに正確に理解し、息子に説明します。息子もそれ以上に瞬時に、この話を引き受けます。

「ふたりが結婚するんなら僕は嫌だから、僕だけ出ていくよ」

と言いながら。

7歳の息子が「僕だけ出ていくよ」ってセリフを言うなんて。それを聞いた主人公は、同じ7歳の時に両親と離れて祖父母の家で育てられるようになった自分自身の「はるかな進化形」だと確信するのです。

西川健太がいまの僕を早い段階で越えていくのは当然だろう、と僕は思った。健太はどんな人になるのか。その成長ぶりを、もっとも近いところで見るだけではなく、参加ないしは関与することが出来る。ひとりの人が成長していく様子を詳しく知り、至近距離からつぶさに観察し、直接に体験もする。生まれて初めてと言っていい性質の高揚感のなかで、健太がいまの自分とおなじ年齢になったとき、その自分は六十一歳なのだと思うと、高揚感はそのままに、僕は目眩を覚えた。僕は豆大福に助けを求めた。

この小説が朝日新聞に連載されたのは2016年頃で、物語のなかの「今」は2014年と設定されています。文体から少し過去の時代を想像してしまいますが、ほぼ現在と変わらないスマホも普及している時代の物語なのですね。

それにしても、ずいぶん進化した関係に淡々と明るく挑む、進化した人たちだなあと感じました。

この小説をしめくくる最後のオチにも声を出して笑ってしまいました。つまり、そういうことなのです。「豆大福」と「珈琲」というのは。それぞれに独立して確立された魅力を発揮し、社会的な地位や役割を担っている者同士だけど、一緒に食べても意外に合うし、引き立てるのです。

それが結婚の理想形とも思えますが、あえて「結婚」という枠の外でそれを試してみようとしているのですね。豆大福と珈琲だから。

思いがけずおいしい時間をもたらしてくださり、ゼロさん、ありがとうございました❤

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