見出し画像

再掲載:短編小説「素晴らしき無邪気さ」



 今日は夢であった幼稚園の先生になり、3度目の4月1日であった。そしてそれは園児たちの一挙手一投足に過剰に反応し、毎日気を張っていた新人という期間からの成長を不意に感じさせる日でもあった。



 (この白い線を作り出せる心こそ、無邪気さなんだろうな)私は教室で自由に遊ぶ園児たちの統一性のない声を浴びながら、園庭側のガラス戸に付いた園児の指紋を眺めそう思った。実は今朝、園児たちが登園してくる前に、職員全員で園内のガラス戸の掃除を行い、ピカピカにしたばかりなのである。しかし、その痕跡は私の眺めるガラス戸にはもう残っていない。



 ガラス戸の掃除は簡単なものであった。古新聞をバケツに張った水に入れ雑巾の要領で絞り、ガラス戸を懸命に磨くのだ。この新聞紙でガラス戸を磨くというのは、園長先生が伝授してくださった、いわば家庭の知恵とでも言える裏技なのである。新聞紙のインクが洗剤の役割を果たし、ガラス戸の汚れが綺麗に落ちる。そして、使い終わった新聞紙はそのまま捨てる。掃除から片付けも含め実に簡単であるが、得られる成果は絶大であり教えればきっと園児でも行うことができる。



 しかし今現在、私の目の前にあるガラス戸は陽の光を透過し、無邪気な子どもたちが付けた指紋の白い線を浮かび上がらせていた。白い線の種類は多種多様であった。ガラス戸の横を真っ直ぐ伸び、取っ手となる縁を超え、隣のガラス戸まで伸びるものもあれば、車のワイパーの様な左右へ何度も動いたものもあった。そして、一番多かったものは人の顔や花といったイラストを白い線でもってうまく描いたものであった。



 そうした白い線の作品を眺め、私は先述した様な気持ちになったのである。



〝この白い線を作り出せる心こそ、無邪気さなんだろうな〟



 園児たちは登園してから誰1人としてガラス戸の綺麗さを口にする者はいなかった。しかし、園児たちは自由保育の時間になると、1人、2人とガラス戸へ近づいては指で触れ、飽きると他の遊びへと向かい、また違う園児がガラス戸へ近づき指で触れる。といった具合に代わる代わる多くの作品を創ったのである。


 
 職員が掃除をする前のガラス戸には、誰もそんなことをしなかった。そして、結果として掃除する前よりガラス戸は多くの作品に埋め尽くされてしまった。きっと園児たちは色々な気持ちでガラス戸に触れたのだろう。(ツルツルなガラスに絵を描ける)(指で書くと白い線が残るんだ)(いろいろな絵が描けて楽しい)そして、そのどれもが綺麗になったガラス戸だから映えるといったことを意識せずに感じ取ったのである。無邪気である。




 私はそんか園児たちの無邪気さに触れ、同時にそれに気づくことができた私自身に大きな成長を感じる。去年までの私であったら、こんな些細なことに気づく余裕などなく、気づいたとしても「誰がこれをやったの!」と、指導することに注力し感動することができなかっただろう。このとき私は自分の成長を感じ取ったのである。




 私は、パン、パン、パン!と、手を叩いた。その音に驚き、教室にいる園児たちが遊びをやめて私に顔を向ける。園児の顔を見渡すし、私は笑顔を作り優しい声色で語りかけた。




 「みんなすごいね!みてごらん。あのガラスのドア、皆がいっぱい色んな絵を描いてくれたから、太陽の光を浴びて綺麗に見えるね。そうだ、今日はこれからあのガラスにもっと色々な絵を描いてみたいと思わない?」と、私が遊びの提案をすると、園児は歓声にも似た叫び声と共に「やるー!」と、答えてくれた。



 「それじゃあ、まずは綺麗にしなきゃダメだね、先生がガラスをピカピカにする新聞紙を持ってくるから、絵を描きたい人はそれで綺麗にしてから描いてね。そして、『もう描かなくていいよー』ってなった人は、最後に綺麗拭いてから、次の遊びをしましょうね」私はもう新人ではない。園児をうまく誘導し、掃除をさせることだってできるのである。




よろしければサポートをお願いいたします。いただいたサポートは創作費として新しいパソコン購入に充てさせていただきます…。すみません。