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無責任な甘やかしと真の愛情


「私に全部任せて」
「私の言う通りにすれば大丈夫」
「だから言ったじゃない。私の言う通りにしないから」

 毒親の多くはこんな口癖をお持ちではないでしょうか。世間一般では少々の節介焼きだが子供に尽くす母親像を想起されるでしょうが、今の私にとってそれらは悪魔の囁きとしか思えません。
 私の毒祖母は簡単に言えば、責任を取りたくがらない究極の面倒くさがり人間でした。子供を設けるという重大な責任が伴う行いをしてもなお、です。彼女は、《無責任な甘やかし》を真の愛情と履き違えることで親や祖母の役割を果たしたと思い込み、その腹の底では子や孫の将来など何一つ考えていなかったのです。

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無責任な甘やかしとは

 前記事の『毒と金~相対的な貧困~』『ようやく毒から逃げまして⑥』でも言及しましたが、毒は無責任な甘やかしを愛情と履き違えて子の自立や健全な成長を阻害します。
 私の毒祖母は常に大量の駄菓子を買い置き、毎日のようにフルーツやケーキを孫である私に与え続けました。思春期真っ只中だった私は、太っていることをバカにされないために成績だけは良くしようと努力しましたが、身だしなみやファッション、恋愛には滅法消極的でした。
 このよに子供の機嫌を取りたいがために、食べたいと言えばいくらでも食べさせる、過剰な贅沢品やカロリーオーバーな量の食事を与えるのはまさに無責任な甘やかしでしょう。食事に限らず、経済教育についても同様のことが言えます。ある程度の年齢の子供でも欲しいと言えば簡単に買ってやる、小遣いを与えてしまうのも無責任な甘やかしです。

 別の例を挙げますと、我が家には明確な門限がありませんでした。しかし帰宅が日付をまたがる頃になると、毒は不機嫌な態度で待っていたり、翌朝「心配で眠れなかった」と恩着せがましく言ってきたりしました。
 私に良い顔をしたいがために明確なルールは課さない一方で、嫌味や小言によってこちらが"自主的に"言うことを聞くようにしむけてきたのです(この件に限らずこれは毒祖母の常とう手段なのですが)

 親の義務である教育や監督を放棄しながら自分の思い通りにしたいという傲慢さを指摘されると、毒親は血相を変えて否定するでしょう。

「私は誰よりも子供ののことを考えている!」
「子供のことを思ってそのような行動をした」
「すべては子供のため。そう、あの子のためなのよ!」

 子供のため──そう言えば聞こえはいいでしょうし、その響きに心の芯まで酔いしれられることでしょう。しかしその言葉が出てしまった時点でその言動は自分本位のものに成り下がります。これこそが、無責任な甘やかしの正体だと私は思います。


なぜ毒親は無責任な甘やかしに走るのか

 端的に言ってしまえば、毒は究極の面倒くさがり人間です。子供や孫が不機嫌になったり反発したりした際にそれを監督したり教育したりすることは、彼らにとって最も忌避したい“面倒ごと”なのです。 面倒ごとおよびその責任から逃れるために、毒は無責任な甘やかしに走るのです。

 無責任な甘やかしを筆者の観点から四つの型に分類してみました。

①子供にやらせると片づけやフォローが面倒くさいから、何もやらせない
例:「私に全部任せて」と言って家事や炊事を手伝わせない、やらせない、子供に一任しない
②子供が反発したときに対応するのが面倒くさいから、そもそも反抗期を封じる
例:「私の言う通りにすれば大丈夫」と言って、子供の選択権や意志を奪う
③子供が失敗したときに一緒に試行錯誤するのが面倒くさいから、再度挑戦させない、諦めさせる
例: 「だから言ったじゃない。私の言う通りにしないから」と言って、試行錯誤や見守り、応援を放棄する
④子供の機嫌を損ねると面倒くさいから、ルールや規律は設けないでおく
例:「貴方の好きなものを好きなだけあげる」と言って、カロリーコントロールや経済教育を放棄したり、「貴方は世界一可愛い」と盲目的に褒めて客観的な事実を隠蔽する


 このような無責任な甘やかしに浸って育った子は、その後どうなるのでしょうか。
  親が監督・教育を放棄している一方で、子供を従わせようとする言動のせいで常に人の顔色を伺うようになり、健全な自己肯定感が育ちません。また親に選択を委ねてしまったために心身ともに親元を離れられない、あるいは物理的に自立しても完全に親離れができないことも考えられます。
 次に思春期までに捨てるべき万能感や優越感を引きずり、“身の丈”を知らないまま年齢を重ねてしまい、他人と健全な関係を築くことが難しくなります。そうなると、社会や職場、人間関係、恋愛関係、インターネット関係でトラブルを起こす可能性が高くなります。
 いずれのケースにしても、毒親の無責任な甘やかしを受け続けた人間は、漠然とした《生きづらさ》を抱きながら生きていくほかありません。
 

真の愛情とは

 真の愛情とは、将来的な子供の自立を目的とした行動です。それを遂行するために、時には子供の成長に合わせた叱咤激励が不可欠です。
 食べ過ぎたら注意する。おそらく言われた子供はふくれっ面になるでしょう。帰りが遅いならばルールを作って守らせる。遊び盛りの子供は声を大にして反発することでしょう。親が見栄を張ったりせず、ありのままの現実を伝える。それを聞いた子供は、自分の境遇を嘆いては辛く当たるかもしれません。
 それでも親および保護者が常識の範囲内で正しく接していれば、いつか必ず子供は真の愛情だと認識します。「あの時は腹が立ったり、反発したこともあったが、そのおかげで今の自分がある」と。


 最後に、冒頭の悪魔の囁きを真の愛情を以てしてそれぞれ置き換えてみます。

「私に全部任せて」→「まずは自分で考えてやってみよう」と自立を促す
「私の言う通りにすれば大丈夫」→「自分でやってみて、困った時は一緒に考えよう」と試行錯誤に協力する
「だから言ったじゃない。私の言う通りにしないから」→「失敗して辛かったね/悲しかったね/悔しかったね。でも、私はずっと味方であることを忘れないで」と再挑戦を促す


 甘やかすのでもなく、突き放すのではなく、あくまで寄り添う。そんな真の愛情にに触れてきた人間は、きっと自分の軸で人生を切り開くことができます。自分で考え、挑戦し、失敗して、試行錯誤をして、また挑戦するという成長サイクルを繰り返すことで得られる強い力によって。

 悲しいことに私にはその力がありません。そんな私からすると、無責任な甘やかしは時として麻薬のように思えます。刹那的に満足することはできますが、時間の経過とともにその人間を毒して苦しめます。年齢を重ねた今、私はこうして自分自身を振り返ることで解毒するほかないのです。

 子育ては面倒ごとばかりで責任が重い行為です。子供を教育するのは至難であり、監督するのは気力、体力の双方が求められますが、誰もが四六時中完璧でいられるはずありません。ただ、何もかもが面倒くさく思ってしまったとき、安易に無責任な甘やかしに走らないでほしいと私は思います。どうしても一人で立てない、周囲の助けを得られないときだけは仕方がありませんが、その後はその“楽さ”に逃げてしまわないでほしいのです。
  無責任な甘やかしという麻薬によって私と同じように苦悩する人間がこれ以上生まれませんように──切にそう願ってやみません。


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 今回も拙文にお付き合いただき、ありがとうございました。

 年末年始は毒問題や家族問題を抱える方にとっては辛い時期かもしれませんが、少しでも心身を癒すとともに、来年への希望を見出せるよう心から願っております。


 年明けには映画や著書の感想を毒育ち目線で述べようと考えております。

 わずかながらですが、本年もお疲れ様でした。来年はわずかにでも前進できますように。それでは良いお年を。

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