都合の良い女、使われる男

関係にヒビを入れるのは何だろう。

絆に楔を打ち込むのは何だろう。

箱根の旅館で温泉に浸かっていたら、昔別れた彼女から、不可解なメールが届いていた。

露天風呂を楽しんで、部屋に戻って、テレビを観ながらビール飲んでいた。

スマートフォンを開いてみたら、メールが届いていた。アプリを開いたら、昔別れた彼女、Mからのメールだった。

メールには、どうしてメールを送ったのか、理由は何も書いてなかった。
クリスマスイブの日、ご主人と大喧嘩したことが綴られていた。

一読して、さて、どうしよう、と思案した。

彼女の文面は、素直に共感するし、惻隠の情というのも心に湧く。

この通りのことを言われて、されたとしたら、悲嘆に暮れるどころではないだろう。

僕が返信を送ったところで、せいぜい、気持ちを受け止めて、共感の言葉や労りの言葉を送るくらいが関の山だろう。

そんなもので良いのだろうか。

彼女の真意、意図が分からなかった。

そこに、妻と子供がお風呂から戻ってきた。

三人で食堂に向かい、夕飯をいただくことにした。

山海の珍味美味が供されて、お酒もいただきながら、団欒を楽しんだ。

その間、彼女のメールのことは意識しないようにしていた。

食堂にはあまり人も残っていなかった。

妻と子供は十分満足した様子だったので、部屋に戻ろうとした。

ロビーで、ちょっと一服してくると言って、僕は喫煙室に向かった。

先客が一人、影が見えた。ドアを開いて驚いた。

伯父さん、何してるの?

温泉に浸かりに来た。

温泉?

肩こり腰痛に効果があると聞いてな。

肩こり腰痛あるの?

ない。

相変わらず訳わかんないな。

まあ、座りなさい。

伯父さんは葉巻を燻らせていた。

甘い香りの紫煙が部屋中に漂っていた。

メールの返信は送るのか?

どうしようかな、と思って。

悩んでいるのか?

悩んでないよ。

どうしよう、というのは、悩んでる言葉じゃないのか?

まあ、そうだね。

素直になりなさい。

そうだね。悩んでるよ。

悩みなさい。それが人間らしい。

伯父さんは気楽で良いね。

何が気楽なもんか。こうして時々温泉に浸かりに来ないと身体中が悲鳴を上げるくらい疲れ取るんだぞ。

そうなの?

いや、人間の真似をしてみた。

やめてよ。冗談言うのは。

冗談は真に受けなさい。

わかったよ。

それで?

それで、とはなんだ。

用件は何?

可愛い甥の顔を見に来たんだ。

またそれ?

またとは何だ、またとは。

いつもそれじゃん。

いつもでは悪いのか?

悪くないよ。

だったら、人の言葉は鵜呑みにしなさい。

はいはい。

はいは一回だと何度言ったらわかる。

はあい。

はといの間を伸ばすな。

はい。

よしよし。良い子だ。

子供扱いするのはやめてよ。

別れた、というのは現世の絆が断ち切られたことを意味する。

そうなの?

そうだ。

悲しいね。

そうか?

悲しいよ。

元々人間はひとりぼっちだ。だが、あの野郎の気紛れで時々絆が結ばれる。

あの野郎って誰?

あの野郎はあの野郎だ。名前を言った瞬間、口が腐る。

へえ。言ってみてよ。

だから、口が腐ると言うとる。

口が腐るの?

口が腐る。

だったら、言わなくても良いよ。大体わかるから。

大体わかるなら、人様に尋ねてはいけない。

伯父さん人様じゃないし。

わかることをいちいち訊くな、と言うとる。

わかったよ。

でまあ、気紛れの絆は、続くこともあるし、途中でぷつりと来れることもある。元々ひとりぼっちの人間同士、元に戻るだけの話だ。

寂しいね。

寂しいか?

寂しいよ。

なあに、心配するな。お前はどのみち、コキュートスで氷漬けになる。

僕のことはどうでも良いよ。

じやあ、何だ?

彼女は何かメッセージを送ってきたのかな、と思って。

だったら尋ねたら良い。素直に。何かのメッセージだと思うけど、何ですか?脳足りんな僕にはわかりません、と尋ねたらよろしい。

良い歳した大人の返事じゃないね。

だからお前はダメだと言うとる。

わかってるよ。

素直でよろしい。

考えなさい。

え?考えるな、行動しろ、じゃないの?

時には、行動よりも考えることが重要になる。

まあ、そうだね。

考えるとは、行動よりも苦しく辛いことがある。

まあ、そうだね。

こんなポーズ、知らんか?

伯父さん、それ、ロダンの考える人だよ。

なるほど。今はそう言うのか。

なんだよ、今って。

昔は、このポーズは、走る人、と言っていた。

そうなの?

そうだ。じたばたする人、という時代もあった。

そうなの?

これは静安のポーズではない。

そうなの?

これはもがき苦しんでいるポーズだ。

沈思黙考のポーズ、と言われているよ。

それを浅慮と言うとる。

そうなんだ。

お前はあれか?死ぬ気で考えたことがないのか?

んー、どうだろう。

その返事と表情じゃ、ないな。

あるよ。

いつだ?

伯父さんと契約して心臓を…

わかった、わかった、皆まで言うな。

わかったは一回だって習わなかった。

お前は嫌な奴だな。

お互い様だよ。そろそろ部屋に戻りたいんだけど。

そうか。

うん。

お邪魔しようか?

やめてよ。皆んなびっくりするから。

どうしてだ?

耳がとんがって、口が耳まで裂けて、尖った尻尾をひらひらさせて、でっかいフォークみたいな槍を持ってたら、誰だって、びっくりするよ。

そうか。

そうだよ。

それで、悩みは解消したのか?

してないよ。

そうか。悩みなさい。

うん。そうするよ。

悩むということは、弁証法そのものだ。

そうなの?

対立する矛盾のど真ん中に人間はいる。その矛盾を否定せず、両者を肯定統合して、より高次の考えに向かっていこうとしていることに他ならないからな。

ちょっと、どうしたの?伯父さん。

アウフヘーベン。

おお!ドイツ語。

なんてな。

それ、和久さんのセリフだね。

事件は…

現場でしょ。

セリフを取るな。不粋な奴だな。

あ、ごめん。

まあいい。気にするな。

矛盾ね。

そうだ。矛盾と思うの、はまだまだ思索が足りないからだ。

そうかもなあ。

考え、悩み、悶え苦しみ、じたばたすることこそ、美しい。

美しいという言葉を、伯父さんから聞けるとは思わなかったよ。

得したか?

いや、得してないけど。ちょっと驚いただけ。

我が甥ながらノリが悪い奴だ。

ノリが悪い伯父さんの甥だね。

ところで、お前はここに何しに来たんだ?

あ、そうだ。煙草吸いに来たんだ。

ならば吸いなさい。

うん。

煙草を吸いながら聴きなさい。返事をするしないは、単なる行為の有無だ。した方が良いかしないほうが良いかは、要否であり、可否だ。有無や要否や可否は、まだ、その善悪好悪の段階に過ぎん。その彼岸に向かいなさい。

伯父さん、彼岸って言葉好きだよね。

彼岸に住んでるからな。

だったら、お彼岸の時にだけ来てよ。

何を言う。好きな時に会いに来て何が悪い。

相変わらずわがままだなあ。

わがままに生きると、ストレスフリーだぞ?

そうだろうね。

なあに。ストレスのひとつやふたつ、お前にはちょうど良い。

まあ、そうだろうね。

甥。

やめてよ。おい、って呼ばれるような感じだから。

おっと、済まない。

良いよ。そんなすぐに謝らなくても。

甥よ。

民謡みたいだね。おいよーって感じで。

何度言わせる。民謡と蜘蛛は…。

アレルギーでしょ。ごめんなさい。

よしよし。分かっていたらよろしい。

それで?

それでとは何だ。それでとは。

話はどうなったの?

ん?

いや、だから、メールのことで悩んでるから、現れたんでしょ?

温泉に浸かりに来たのだ。

まあ、良いよ。そういうことで。

返事するのか?

するかしないか、どちらも肯定して、止揚するよ。

Aufheben.

すごい。さっきよりもドイツ語らしいよ。

まあな。

今日はどこから帰るの?

お前は知らんのか?ドアというものがある。

知ってるけど。伯父さん、あまり使わないでしょ?

何を言う。使っとるぞ。

時々ね。

物は時々使うと長持ちする。

そうだろうね。

ではな。

うん。

然らばだ。

さようなら。

伯父さんは、時々使うドアを使って、喫煙室を出て行った。

後ろ姿が僕そっくりだった。

どうして自分の後ろ姿を知っているかというと、僕の背後には、目がついているからだった。

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