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シベリアの春

行ったことはないけれど、シベリアの春という言葉が浮かんだ。

シベリアにも春は訪れる。

あんな極寒の地にも、野花の咲く頃が来る。

この前、シベリアの夜、という物語の中で、冷たく寒い風吹の中で、死にそうになりながら、小屋を目指して、必死に歩いていたというのに。

あの時は、ハバロフスクから命懸けで永久凍土を踏破した。

それはひとえに、待つ人がいたからだった。

ずっと待っていてくれる人のために、命を惜しまず、ホワイトアウトの世界に足を踏み入れることができた。

待っていてくれる人を、裏切ることはできない。

失望も、落胆も、悲嘆に暮れさせることもできないから。

ただ、それだけだった。

待つ人がどこかにいなくなって、長い冬も終わり、今、束の間の春になろうとしている。

待つ人がいた小屋はあの時のままだ。

誰も住まなくなったから、そのうち風雨風雪に、ゆっくりと朽ち果てていくだろう。

シベリアの春は短い。

冬と夏の間の瞬きだ。

春を彩るライラックの蕾は、今にも花を咲きそうに膨らんでいる。


言葉は怖い。

たった一言。

その一言で、何もかもが崩れてしまう。

そんなことは日常茶飯事。

それが世の常、現世の掟。

たったひとつの動作で、機械が壊れるのなら、たったひとつの言葉で、人も世界も壊れる。

壊れてしまったのは、人なのか、繋がりや絆なのか。

それは誰にもわからない。

わかるとしたら、今はもう、あの小屋には誰もいないということ。

シベリアの春をかすったら、踵を返して、日本に帰ろう。

そこに誰もいなくても。

誰もいなくても、毎日ひとりより、少しだけましだろう。

そんなことを思いながらチューハイを飲んでいたら、ドアがノックされた。

誰だろう、と訝しげにドアを開けると、そこに伯父さんが立っていた。

なんだ、また伯父さんか。

なんだとはなんだ。なんだとは。

伯父さんは大袈裟に手をひらひらさせながら、入ってきた。

またとはなんだ。またとは。伯父さんは尖った耳をひくひくとさせていた。

だって、またじゃないか。この前も、なんの前触れもなく現れて、嫌味言って、皮肉言って、すぐにどっか行って。

それが俺の役目だからさ。

どんな役目なんだよ。

俺にもチューハイをくれ。

はいはい。

はいは一回って教わらなかったのか?

はいはい。

なんだ、お前、反抗期か?

んなわけないでしょ。この歳で。

いや、お前は一生反抗期だな。

やめてくれよ。青二歳みたいじゃないか。

伯父さんは、缶チューハイを受け取るとプルトップを開けて、ごくごくと飲んだ。

俺から見たらお前は青二歳だ。

はいはい。

ところで、あの小屋はどうなった?

相変わらず、痛いところを突いてくるね。

誰もいないのか?

誰もいないよ。

どうして?

だからさ、伯父さんも知ってるでしょ?

いや、知らん。何にも知らん。

いろいろとあるんだよ。一言では言えない。

伯父さんはゲラゲラ笑った。

一言で終わったくせに。一言では言えないなんて。面白いなお前。

そんなに笑わなくたっていいじゃない。

だって一言で壊れたんだろ?

まあね。

いろいろなんてないじゃないか。

その一言でいろいろとあったってことだよ。

で?

で?って。

で?は、で?だ。

よくわかんないな。

で?お前は日本に帰るのか?

そうだよ。

のこのこと?尻尾巻いて?

そうそう。尻尾巻いて。のこのこと。

誰もいないのにか?

そうだよ。

お前は、あれだな。

あれって?

あれだ、あれ。

あれじゃわかんないよ。

ハートブレイクっちゅーやつだな。

ハートなんてないし、だからブレイクなんてできないし。

おっと、そうだったな。お前のハートは、契約の時に俺が貰ったんだった。

相変わらず、大切なことは何一つ覚えてないんだね。

んなこたあない。ちゃんと覚えてるぞ。

たとえば?

お前も疑り深いな。

たとえば?

んー、待て待て、そうだなあ。あれだな、あれ。

またあれなの?

あれと言えばあれに決まっとる。そう、あれだ。お前が小屋を作った時のことだ。

やめてよ。傷口に塩を塗るのは。

塩じゃない。辛子だ。

もっと悪いじゃないか。

やっと小屋を作れたと大喜びしとったなあ。

まあね。

小屋を作るには相手がいないとなあ。

まあね。

やっと相手が見つかったと大喜びしとったなあ。

その、しみじみとした言い方やめてくれないかな。あと、その遠い目も。

どうだ?相手がいなくなった気分は。

最悪だね。

そうだろう。そうだろう。

で?

で?とはなんだ。で?とは。

何が言いたいのさ、伯父さん。

恋は遠い日の花火ではない。

それ、CMのキャッチコピーでしょ。

良い言葉だと思わんか?

思うよ。

だから、お前も、くよくよするな。

どうしてそこで、だから、になるのかわかんないな。

だからお前はバカだと言うとる。

わかってるよ、自分がバカだってことは。

小屋はどうする?

どうもしないよ。

どうなる?

さあ。朽ちるだけじゃないかな。

それで良いのか?

良くはないよ。

じゃあ、どうする。

これから考えるよ。

それじゃ遅い。今考えなさい。

んー、新たに小屋を建てるよ。

どこに?

さあ。

誰のために?

さあ。

お前はそれでも俺の甥か?

こんなんでも伯父さんの甥だよ。

何をするにしても、先ず、何のために、誰のために、それをするのか、ということを明確にすることが、最も大切だぞ。

理解してるよ。ただ、よりによって、伯父さんから聞かされるとは思ってなかったけど。

だったら、小屋の前にお前がすべきことはなんだ?

そうだね…失われたものは戻らないから、新しい守りたいものを見つけようかな。

何のために?

月並みだけど、幸せのためにかな。

月並みなんかじゃないぞ。それが一番だ。

うん。

幸せのために、というが、誰にとっての幸せなんだ?

その人の、ひいては自分の。

よしよし。よくできました。

子供扱いするのはやめてよ。

何を言う。お前はいつまでも子供だ。

はいはい。

はいは一回だと言ったろうが。

はい。

さてと、お前が日本に帰るなら見送ろう。

良いよ。

遠慮するな。

遠慮じゃないよ。やめてよ。

どうして?

そんな、耳が尖って、口が耳まで裂けた伯父さんが横にいたら、僕まで変な目で見られるからね。

これは仮の姿だ。わかりやすいアイコンみたいなもんだ。

だったら、普通の格好してよ。

普通というのがない。

だったら、やっぱり、見送りは良いよ。

わかった。達者でな。

うん。伯父さんも。

そうだ。ハートは返して欲しいか?

いや、良いよ。

そうか。

うん。

伯父さんはいなくなった。

帰りはドアから出ていかなかった。

だったら、来る時もドアを使わなければ良いのに。

なんだかんだ言って、そういうところだけはきっちりとする伯父さんのことは、憎めなかった。

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