「何事も自分次第」という無責任な言葉を投げかける大人たち

「人生何度でもやり直せる」とか「うまくいくかは自分次第」なんて言葉を激励の言葉として投げかける人はどこにでもいるが、その言葉を受け取って行動に移せる人というのは、自分の社会的な立ち位置を把握して、今手元にある材料や人脈で適切に動く方法を知っていて、計画を練ることのできる人だけである。そして、大抵の人は当たり前のように受けてきた義務教育、そして中等教育や高等教育を経て自分の立場を知り、身の丈にあった目標を定めて行動していくので、それらの言葉を受け取ることができる。しかし、一部、その教育を受けられなかったり、親や学校から排除されてしまう子どもがいる。排除されると上述のような視点を持たずに肉体だけ大人に成長してしまい、心や頭は未成熟になってしまう。未成熟な状態の方が純粋な気持ちで世界を見ることができるので、そんな人たちが描く理想の世界こそ人類にとって絶対的に正しい綺麗な世界だとぼくは思っているが、その話は別のnoteで話そう(おそらく過去のnoteで書いている)。

心や頭が未成熟で肉体だけ大人になってしまうと、どうしても既存の社会の枠組みでは生きづらいと思う。しかし、そんな大人をつくり上げたのは、幼い頃に社会から排除した大人たちだ。そんな人たちは今後さらに目立つようになると思うが、それでも「自分次第」という無責任な言葉が投げかけられ続けるなら、責任を果たして欲しいと思う。社会から排除された経験から自分の立ち位置や能力を客観的に把握することができずに苦しんで生きづらさだけを背負ってきた人の中には、反社会的な行動に出てしまう人もいる。社会を教えてもらえなかったのだから当然だろう。しかし、反社会的な行動に出てしまうと、皆同じ法廷で裁かれることになる。そこがぼくには納得いかない。幼い頃に大人が社会から排除したくせに、社会から逸脱した行動をとったら、既存の社会の枠組みで規定された裁きを与えるというのは、どう見ても無責任ではないだろうか。

つまり既存の社会というのは、当たり前のように社会に沿って育ってきた人たちの身勝手で形成されているに過ぎず、それは到底、多様性を許容できるものではなく、エゴの社会から排除された人はとことん追い詰められるだけなのだ。だからこそ、排除された人の中には、正しい世界の姿が見えている。これ以上そんな無責任を続けるくらいなら、排除された人たちだけで新しい国家あるいはそれに相当する社会を形成する権利と地球上の居場所を与えてくれても良いのではないだろうか。

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