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人工的カラーバス効果としてのパーソナライズ機能

ちょっとおっさんの昔話になるけれども、Amazonでサジェスト機能を初めて目にした時、衝撃を受けた。もちろん当時のECサイトでお勧め機能を持っているところはいくらか目にしていたし、実装のタイミングはともかくある意味既知の機能であったのは確かだ。ただ、まだ他サイトは広告的な側面が前面に出ており、行動データよりかはスポンサードの傾向が明確に見える中、Amazonのそれは行動データを主軸に展開していた(ように見えた)。

だからこそ、衝撃を受けたし、上からの物言いになることをはばからず言えば「このサービスは成功する」と直感的に思った。そして、この会社の躍進は言うまでもないし、今でもサジェスト機能は好きな機能の1つだ。

例えば、最近Yahooショッピングのおすすめ機能が少し話題になった。この話そのものは、とっ・・・ても、しょ~~~もない話だとは思うんだけれども、「広告」に対する消費者の心理的抵抗としてはわからんでもない側面もある。(ただ問題視するレベルの話ではないというか、そこは消費者側の責任で文脈を読み取るべきところだろうとは思う。)

(まぁ、上記まとめはタイトルなど、まとめた人の恣意性がなくもないので、その辺はバランスを取って読んでもらえればと思う。)

何が言いたいかといえば、未だに基本ECサイトは広告ビジネスであって、その中で、当時から消費者の行動に依存したサービス展開をしているAmazonに「変さ」を感じ、好感を持ったというだけの話だ。


とはいえ、ここで話を終わらせてしまったら本当におっさんの思い出話でおわってしまうので、もうちょっと掘り下げようと思う。

多分、語感的に心理学の用語だと思うのだけれども、「カラーバス効果」というものがある。これは、その時気になっているもの(意識の表層にあるもの)に関する情報が目につきやすいという現象だ。有名なカルテルパーティ効果と似た心理機能だと思う。人間は意識しているものに、無意識的に集中するのだろう。

この効果を知る以前から、こういった現象は不思議に思っていて、例えば新しく知った用語・概念・存在が、知って以降やたらと目につくようになる。これは「今更?俺は既に知ってるよ~」といったちょっとした自尊心をくすぐる現象であると同時に、「といっても、今まで気づいてなかっただけなんだろう」という冷ややかな自己認知が発生する体験で、個人的に面白さを感じると同時に、なぜそうなるのか疑問を感じるものだった。

カラーバス効果というものを知って、「なるほど」とその認知メカニズムについては納得したし、その効果を感じるたびに「あ、今自分はこれにアンテナを張ってる状態なんだ」という自己認知につながった。さらには、「じゃぁもうちょっと掘り下げてみるか」みたいな、自身の興味関心の外部センサーのようになっていったのでカラーバス効果というのは好きな認知機能の一つだ。

ここで、Amazonのサジェスト機能や、最近ではGoogle等々のパーソナライズ機能の話に戻すと、これって「人工的カラーバス効果」なのではないだろうか。つまり、自身が気づいているかどうかを問わず、「あなたは今これに興味がありますよね」と外部から刺激されることによって、それに対する興味がより強化されていく。カラーバス効果はメタ認知の一種と考えているのだけれども、それが(広義の)AIによって半ば強制的に与えられるのが、今のEC・広告業界なのではないだろうか。

そう考えると、社会的発展という面で非常に面白さを感じると同時に、そういった人間としての本当的な認知機能を外部に依存するようになったという面で恐ろしさも感じる。

『封神演義』という作品で有名な藤崎竜という漫画家がいる。氏の短編で最も印象に残っているのが『WORLDS』という短編集に掲載されている『TIGHT ROPE』という作品だ。この文章のテーマとはちょっとずれるのもあって、実際のストーリーは作品を是非読んでもえればと思うが、エイディ―という高度なパーソナライズAIに支えられていた社会が舞台で、物語の終盤にそのエイディー全てが機能を停止するシーンがある。このシーンだけはいまだに鮮明に覚えているのだけど、人間としての認知機能をすべてアウトソースした末路が端的に描かれていると感じた。主人公以外の人々は一様にパニックを起こし、幼児化していった。率直な感想は「怖っ!」だ。自分のどこかにあるAI社会への恐怖感はここからきているように思う。

技術的、ビジネス的に人間の認知機能をAIやそれ以上の技術でもって再現し、サービス化するのは正しい戦略だろう。これまでも、これからもそうやって技術・産業・経済は発展して来たし、発展して行くのだろう。ただ、一方で消費者としての私たちはそれをある程度客観的な、冷めた視点で見ておく必要もあるのではないかと思う。


というか、商業ではこれだけ手段を尽くしてサービス受給側の行動をマネジメントしているんだから、教育業界もそろそろその辺考えてもいいんじゃないか?頑張りましょうや。

個々の先生方が日々努力と工夫を重ね、研究者の皆さんがたくさんのアプローチを考案されているのは、よくよく知っているんだけれども、噛み合わせがイマイチなんですよ。国レベルでもっと貪欲に、ストイックに、戦略的に展開できないものですかね???

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