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ある本棚について

 私は低い本棚から、寺山修司の詩集を抜き取った。
 手に馴染む、よれた文庫本の表紙を無心でめくりながら。文字を追いながら。私は彼女の話に耳を傾けた。この本棚も、この本も全ては彼女の所有物だった。この狭いアパートには、そんな彼女の存在の分身が散らばっていた。甘いバニラの香水の匂いや、薄い柔軟剤やシャンプーの匂いがあった。しかし、それらのほとんどは巷に溢れているものだった。
 「人の本棚をあさるひと、きらいなのよね。」と彼女は言った。私は、その言葉を体現的に無視しながらも、曖昧な相槌を返した。ページをめくる乾いた音が、彼女との間に割り込んだ。彼女はそれを黙って聞き、言っても無駄だと諦めたのか話を続けた。

 彼女の実家は、房総半島の海沿いの住宅街にあった。朝日新聞を購読している、中流家庭の出身だった。なにかの折りに、父親について尋ねたことがあった。いったいそれがどのような経緯で、いったいどのような問いだったのか、もう忘れてしまったのだが。彼女の答えだけは覚えている。彼女は「二十歳を過ぎた娘の処女をいまだに信じている。」と言った。
 本棚の隅には革装の聖書があった。背表紙だけが日に焼けていて黒の濃淡に差がある。西日が直接当たる本棚に長い間、仕舞われていたのだろうか。いつか、母親のものを譲り受けたのだと言っていた。母親はカトリック教徒で、彼女も幼い頃は安息日に教会へ通っていたらしい。そういえば、初めてこの部屋に来た時。「お母さんにね、結婚するまで、男のひととそういう関係になっちゃだめだよって言われたことがあるの。」と、ベッドの上で彼女に言われた。

 眉間のあたりに意識が戻ってきた。彼女は私の隣にいて、話つづけている。
 「———ね、私はパッサパサのスコーンがすきなのにね———」
 「ごめん。聞いてなかった。」
 「はぁ、もういいよ。」と彼女が言って、私は文庫本を本棚に戻した。音楽が鳴り続ける。都会の冬は深くなって、雪が静かに積もっていく。

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