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兄自慢


武勇伝


こんな場所で自慢話をするのはいかがなものか……

でも、やっぱり、兄の自慢はさせてほしい

もうすぐ兄の誕生日が来る

亡くなってから22回目の誕生日が


 兄の武勇伝は数々あるが、まずは、中学3年で家庭教師をしていたこと。いやいや、バイトではなく、クラスの女の子に勉強を教えていただけだが。昭和40年ごろはほとんど塾なんてなかったので、兄はお小遣いで参考書をそろえて独学していた。試験前などに頼られると教室で友達に教えているが、学校の時間内では終わらずに家まで教えに行くこともあった。「勉強なんて1人でするもんじゃないよ、友達とやったほうがいいんだ」というのが口癖で、中学に入って最初の学力テストは学年300人超の中でいきなりトップだった。それには私も母もびっくりした、そんなふうには見えなかったから。

 帰宅してから7時ごろまでの1~2時間だったと思うが、ある日、兄が教えている間に上のにぎり寿司が(2人前)わが家に配達されてきた。「これ、息子さんに勉強を教えていただいているので」と、すし屋の店員さんがご主人に言われて持ってきたのだ。兄が教えていたのはそこの娘さんで、家からすぐのおすし屋さんだった。兄はそちらでご馳走になっているという、母と私は驚いたり、喜んだり、大したものだと感心したりの夕食になった。

 

けんかの仲裁


 22歳ごろ、だったろうか、夜の11時ごろに帰宅した兄の開口一番が、「俺さ、知らない人におごられちゃったよ」だった。「えっ、どうしたの」、見ると少し顔が赤い。「いや、そこの駅で酔っ払い同士が大声でけんかしてたんだよ、中年のおじさん同士」。「それで?」、「誰も止めないから、『いい年してみっともないから、やめましょうよ』って言ったら、『若いのに気に入った』って、どうしても駅前でおごりたいって言われちゃって……」。
 酔っ払いなんて普通だったらみんなは相手にしたくないし、私なんかは絶対無理だ。どんな人かも分からないのに仲裁に入って、殴られずにおごられてくるなんて、どうしたらできるのか……兄のすごさを、私はここでも感じさせられていた。


兄も私も、イチョウの黄金色がまぶしい12月生まれ


サプライズ


面白くて、結構楽しくさせてくれる

人に厳しくないし、乱暴じゃないし

母に言わせると、「口の利き方がやさしい」ので

兄は結構モテた

異性にも、同性にも。


 それが証明されたのは私が中学に入学したとき。校庭で何のためだったか集まっていると、「○○君の妹さんですか」と、私の名札を確認しながら生徒会長が近寄ってきた。そして、私がこれから行くべき教室まで誘導してくれた記憶がある。「君が○○の妹か」と、体育や英語や、音楽の先生にも声を掛けられた。兄も生徒会をやっていたからか、有名人ではあったのだ。親の七光りって、こんな感じなのだろうか、父のいない私には兄が親代わりのようなものでもあった。
 学校に慣れてくると廊下で知らないお姉さんに呼び止められることもあった。「ねえ、お兄さんの好きな色を教えて」、「えーっと、白と紺と…」。兄が二色の手編みのマフラーをもらってきたのは、12月の誕生日だった。
 うちに届いた兄宛ての手紙の差出人が、私の同学年の女子だったときはかなり気まずかったが、兄に好意を抱いていた私の同学年はほかにもいた。私は極力知らんぷりをしたが、兄も何となく彼女たちには素っ気なかった。
 そこまではいかずとも、「お兄さんがいてうらやましい」「私もああいうお兄さんが欲しいな」、それは高校の友人たちにもよく言われたものだった。

私が高校入試のときは、朝起きたらお弁当ができていた

いつもは私がつくるからとお返しに、生涯その一回だけ……

親友が下宿するときに、トラックを借りて荷物を運んでくれたっけ

その友と2人で行く、大学の卒業旅行のとき

突然、夜の上野駅までピザを持って見送りに来てくれた


兄はいつも特上のサプライズで感動させてくれた、私も、周囲も。



兄も、好きだった人には振られてしまったんだけど……



奇跡?


この辺で最後にしよう

まだまだたくさんあるが

人の自慢ほどつまらないものはない

だけど、あと1つだけ言わせてほしい。


 兄が会社で知り合った女性と結婚することになった。初めて1人で彼女がわが家を訪ねるという日、地図をもらっていながら道に迷ってしまい、焦って駅前からタクシーに乗った。そして、持っていた住所と、ご丁寧に名前まで読み上げると、運転手の青年が、「あっ、知ってる、○○君だ」と言うので、彼女は心底びっくりしたのだと。そして、「いい人だよ、いい人と結婚するんだね」と言ってもらえたと、興奮気味に、うれしそうに、私や母の前で話し出すので、聞いているこちらまで胸が熱くなった。
 兄の人物評価がこんなところでも聞けるなんて、ただ、ただ誇らしかった。

 

頭も良く、スポーツも万能だったが、そういうところではないのだ

人としての大きさというか、人としての質というか

ユニークさというか……


50歳を待たずに逝ってしまったのは、本当に残念だったが

亡くなる前の兄はよくこう言っていた


「人間は、生きていることが奇跡なんだよ」って。



そう思って、病気を受け止めていたんだね


お兄ちゃん、ごめん


私にばっかり奇跡が続いていて……


                2022.12.16


創作の芽に水をやり、光を注ぐ、花を咲かせ、実を育てるまでの日々は楽しいことばかりではありません。読者がたった1人であっても書き続ける強さを学びながら、たった一つの言葉に勇気づけられ、また前を向いて歩き出すのが私たち物書きびとです。