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「やらせ」を受け入れるバカさ

  ここ数年、テレビをはじめとする多くのエンタメ番組で「やらせ」という言葉が聞かれるようになりました。

 「やらせ」の代表格と噂されるのは催眠術とかで、出演者が催眠術にかかったふりをやらされたりします。他にも「リアリティーショー」と呼ばれるような類のものでは、出演者のセリフや行動に演出側から指示が出されます。

 そしてこのような事態が発覚すると、視聴者は叫ぶのです。「やらせじゃないか!」と。

 なぜ「やらせ」は嫌がられるのでしょうか。よく「やらせ」はつまらないと言われますが、「やらせ」があったと発覚する前に、僕たちがその番組で笑うことはたくさんありました。しかし一度「やらせ」だったことがわかると、なんだかとても冷めた印象をその番組に抱く人が多いように感じます。つまり「面白ければなんでもいい」というわけではないのでしょう。

 恐らくですが、ここで感じる「騙されている感」のようなものが、「やらせ」を毛嫌いする一つの要因なのかもしれません。

 メディアは最初から僕たちを騙して成り立っています。これは決して悪い意味ではないのですが、構成やセリフはおおかたの指示が元からありますし、出演者たちだって本心からの言動は限られています。カメラアングルや編集のことを考えれば、僕たちが画面の前で観ている世界はものすごく限られたものだということがわかりますし、これらはエンタメをエンタメ化するために必要な「僕たちを騙す技術」です。

 しかしその「騙す技術」を怠るとどうなるか。僕たちは一挙にエンタメの世界から現実の世界へと引き戻されてしまいます。

 アイドルや清純派女優とされる人たちも、この「やらせ」に苦しみ、その蜜を受益する者たちです。アイドルの熱愛報道に憤慨する意見も、そのアイドルが行ってきた「パートナーがいないというやらせ」に対してのものでしょう。

 これらのこと。僕たちはほんとうに気がついていなかったのでしょうか。いや、きっとただ見て見ぬふりをしていただけだと思います。

 僕たちは「バカのふりをするバカ」です。行き過ぎた「やらせ」は僕たちをバカだと嘲笑し、足りない「やらせ」は僕たちにバカのふりをさせてくれません。これはエンタメに限られた話かもしれませんが、優秀な作り手はその塩梅を調節して、気持ちよく僕たちがバカのふりをできるようなコンテンツを届けているのだと思います。

 しかしここ最近、僕は少しだけ「やらせ」が足りない気がしています。

 爆笑問題の太田さんが言っていました。「昔は綺麗事がスタンダードで、それをたけしさんとかがぶち壊してきたから面白かった。夕日に向かって走れって、どこまで走るつもりだよって。でも今は綺麗事がなさすぎる。ネットとか本音だらけ。そこまで気にしなくていいんじゃないか、むかしと逆になっちゃった」。

 「やらせ」はたしかに褒められたものではないかもしれない。しかしエンタメが持つチカラを最大限に発揮するためには、「やらせ」は必要な気もしている。

 誰かを感動させたり、笑顔にさせたり。そういうポジティブな感情を生み起こすために発生する「やらせ」「ウソ」「騙し」はいらないことだろうか。悪いことだと言い切れるのか。

 僕はむしろ、それらのことがあたかも「本当なんじゃないか」って信じようとしてしまう「僕たちのバカさ」に希望を感じていたりする。

 綺麗事に感銘を受ける素直さこそ、それを見破るチカラよりも今の時代には必要なのかもしれない。


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