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やる気

 夏休みの何でもない日の話である。その日は雨が終日降っていた。
 私は、起床してからすぐに、小学館の日本古典文学全集「平家物語」の巻五を読んでいた。源平合戦の様々な戦いのうち、「富士川の戦い」辺りの話である。この巻は、「文覚」という不思議な僧が登場したり、平家滅亡への微量ながらも不穏な雰囲気が漂ったりしていて、なかなか面白い展開であったため、いつもより多く読み進めてしまった。
 古典文学を読むのには、結構集中力というか、根気が必要で、結構体力を要する。現代とは文法体系が異なるわけだから、原文を読んで自分なりに解釈して、不明な箇所があれば注釈や対訳を見たり、納得がいかなければ、辞書を引いたりもするからだ。でも、読み進めていく内に、こういうことか、と分かった瞬間が、古典文学を読む面白さの一つだと思う。もっとも、歴史背景や風俗など、他にも沢山の魅力はあるが。
 そういう訳で、体力のいる作業をしていたため、やろうと思っていた資格勉強に手を付けられるほどのやる気がほぼ皆無であった。そんな中で辛うじて参考書を開き、読んだ。ノルマ分まで読み切った。だが、次に問題集を解こうとしたその瞬間、やる気ゼロを告げる脳内のブザーが鳴り響いた。全くやる気が起きなくなった。本当に。ペンを持とうとしても、スマートフォンに手が伸びてしまう。仮にペンを持ったとしても、音楽を掛けようとしてまたスマートフォンに手が伸びて、何か違う事に走ってしまう。あな、おそろしや。文明の利器。拉致があかないと思った私は、自転車の鍵、家鍵、スマートフォン、財布にカッパを持って、クロックスに足を突っかけて、玄関のドアを開けたのであった。
 私の下宿先の自転車置き場には、その構造を少しばかり勉強すれば、文系の私でも作れてしまいそうなチープな屋根しかない。だから、雨の日にはだいたい吹き込んできていて、サドルがびっしょりと濡れている。この日も例外なく濡れていたわけであるが、その水滴を手で拭き取って(正確にはサドルに塗りたくって)、鍵を入れて回す。自転車、起動。青のフレームが煌びやかに輝き、ネジが外れかかって、段差を越える度にあり得ないほど弾力的な動きをする前カゴのついたこの自転車の名前は、「まさし(大学前の自転車屋にて9000円で購入)」である。久々の起動にご満悦な「まさし」に跨って、私は下宿から五分ほどの交差点に位置する行きつけのスーパーへと向かった。
 スーパーへの道中、道路から駐車場に入ろうとした車に轢かれかけた。が、そのまま通り過ぎた。
「あぶねえだろ!」
という声が聞こえてきたような気がしたが、自転車優先だろう。いや、歩道を走っていたから私も悪いことにはなるのか。まあ、いいや。ということを考えている内に、スーパーに到着した。
 入店するやいなや、アルコール消毒をした。もうある種の癖になってしまっていた。多分、昨今流行しているヤツが収束しても、こればかりはなかなか治らないような気がする。
 私は、この日のような日にはいつも購入する、サワークリームオニオンのポテトチップスと、三ツ矢サイダーをかごに入れてレジに向かった。
 レジには、黒い肌で、マスクをしていても分かるほど高い鼻の、外国人とおぼしき店員がいた。この辺は留学生も多いから、きっと彼もそうなのだろう、ということを考えながら、順番を待っていると、すぐに自分の番が来た。このセットアップを購入するときは、いつも少しだけ恥ずかしくなる。まあ、ほとんど誰も気にしていないだろうし、帰宅したら私自身も忘れているのだが。そんなことを考えている内に、店員は登録をテキパキとこなしていく。
 レジでの登録が済んだ後、
「レジ袋はご利用になりますか。」
と聞いてきた。とても綺麗で流暢な日本語だった。このナリでまさか。と思った。ふと目をそらすと彼の名札が目に入る。その疑念は確信に変わった。そこにはハッキリとゴシック体で「田中」と書いてあるではないか。人を見た目で判断してはならないという良い例だ。山田よ。
 ・・・・・・ということを妄想していたら、質問に答えるのを忘れていて、もう一度先の文言を聞くことになった。私はいつもより0.5オクターブほど高い声で、
「いいえ、結構でth」
と答えた。
 店を後にする。そして再度「まさし」に跨って、脚を回すこと数刻、帰宅。ポテトチップスと、三ツ矢サイダーと共に、勉強を再開した。
 かくして私はやる気を(この日は)取り戻したのであった。それにしても、ポテチでやる気を取り戻すような私は、つくづく安い人間だと思う。

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