今のSNSは『手軽に私刑で人をしばく』場になっているんじゃないか

今回書いている内容はインターネット社会の一片を見て私が怨念を募らせている、と言う類いのロクでもない話です。

正味『お前が思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな』と言う話でしかありません。

そのためそう言う話を好まない方はそのままブラウザの戻るをクリックする、タブを閉じる、などをして見なかった事にするのが良いと思います。


なぜそう思うようになったか

まず一つ目として、多様な現実に対して寛容的になることを主張する人間が『ポリティカル・コレクトネスに反する』と称して無自覚な独善で他者を抑圧していること。

次に昨今のSNSにおいて、本来であれば努力の結果として称賛される事や、他人の慶事(祝いごと)に対して『自分が気に入らない』だけにも関わらずもっともらしい理由を付けて炎上させ人間を追い込むこと。

最後に数の暴力で黙らせられる側に立っている者でさえ、自分たちよりもさらに小数の者たちに対し、無理解と差別的な侮蔑を以ってお前たちは黙っていろ、と差別と抑圧の再生産をしていること。

……と言う辺りが主な理由です。

なお具体的な事例は二次加害にも繋がりかねないので例示はしませんが、表現の自由・LGBT が云々・最近の慶事のニュース、という文脈を追っていれば嫌でも目にします。

またその他に、本質的には批判に値する事柄であったとしても、それに起因する批判や誹謗中傷、罵詈雑言が一個人や団体職員の精神的許容度を超える規模で行なわれている、と言う事実も関連しています。

お前たちは人殺しになる覚悟はあるのか?

これは私の哲学・倫理でしかありませんが、SNS、特に炎上案件で特定個人に対して批判や嫌悪を念を示すことは、その一面として特定個人に対して精神的暴力をふるっている、と言う事実を直視すべきだと考えています。

例えば私は先日、

と言う記事で山田太郎参議院議員を名指しで批判しましたが、私個人としてこれは相当な覚悟を以って記事を書いています。

上記の例で言うと、山田議員は自身の不始末によって(得票数などに由来する)50万以上の有権者から、呪われる対象(負の感情をぶつけられる藁人形)と言う立場におかれました。

これはどう言う事かと言うと、山田議員個人(or 彼を直接的に支える陣営)に対して、相手は50万を超える人数から、真っ当な批判に始まって誹謗中傷・罵詈雑言を受ける立場になった、と言う事です。

つまり事実の一面として、多勢に無勢と言う範囲を超え、彼(山田議員)は 50万人を超える人間からインターネット石打ちの刑、しかも私刑、と言う行為を受けています。そしてこれはそう簡単には止まりません。

しかし、私は彼がそう言った立場におかれている、と言う事を理解した上で彼を批判する記事を書きました。さらに X(旧Twitter)で上記の記事を宣伝していますから、これは彼への精神的暴力に加担する事そのものです。

ゆえに、これが私から彼に殴りかかった行為である以上、彼の陣営は私を殴り返し糾弾する権利があります。そして、そのことを受け入れる覚悟こそが、私の文責です

また真っ当な批判を含め、SNSで大量の批判や非難・誹謗中傷・罵詈雑言を受け続ける、と言う状況はその対象となった人物の精神を蝕み、最悪の場合、自死が起きます

そしてその自死を引き起した原因がSNS上の言論にある以上、その人物を殺した犯人はその人物に対し否定的に言及したすべての人間です。

そのため、少なくとも私は人殺しとして仇討ちされる覚悟で批判を書いていますが、その覚悟も無さそうな炎上案件を見るたびに『お前たちは人殺しになる覚悟はあるのか?』と思っています。

『手軽に私刑で人をしばく』が続くと場が処される

これは何年も前から私個人が懸念している点ですが、このまま『SNSでのお手軽私刑』が横行する現実が続くと、『今のSNSは危険だ!特に子供たちを守るために規制しよう!』と言う流れが間違いなく出ます。

そしてさらに性質の悪い話ですが、私はこの懸念を持ちつつも、この懸念の実現を支持する側に立っています。つまり私はSNS上の言論においては『言論の自由規制論者』と言う事です。

正直なところ、私も昔は表現や言論の自由を擁護する立場でした。それは例えば東京都の非実在青少年の問題に反対するための署名をしたり、他にもパブコメへ意見を提出する事もしました。

しかし、それでも規制すべきと言う立場を取るのは、今のSNSは倫理による自制がほぼ機能していないからです。そしてその元凶は『都合の良い正義に狂躁して私刑に奔走する大人たち』です。

はっきり言っておきますが、この世に『「客観的な」正義』なんてものは存在しません(この表現はイスラム宗教家の中田考なかたこう先生からの借用です)。

私はこの『正義』の相対性をアニメやゲーム、コミックス、もしくは小説などから学びましたが(そして中田考先生の一言ですべてを綺麗に表現できました)、正義とはそもそもが主観的なものです。

これは今のインターネット上の論争を見れば明かですが、もし仮にその『正義』が普遍的であるのならば、その『正義』によって行なわれる行為は批判や『悪』としての謗りを受けるはずがありません。

しかし現実にはある『正義』が 『悪』と断じられ、また別の『悪』が『正義』として掲げられ、日々論争と言う名の罵り合いが行われています。そしてこの事こそが『正義』の相対性を示しています。

また、上記のように『正義』の相対性を弁えない人たちは自身の『正義』が普遍的なものと思い上がり、努力の結晶を貶めた挙句、その事業や受賞を毀損し、私生活の破壊を行なっています。

では今現在こういった所業がどこで行われているか、と言えば主にSNS、特に昨今ではX(旧Twitter)が手軽な戦場として利用されています。そしてXが仮に潰えたとしても、この戦火は他の場に移るだけでしょう。

そしてこう言った『ネット炎上と言う名の私人の生活破壊』が続く事態が起きれば、当然、そう言った破壊活動が行なわれる場を一掃すべきだ、と言う主張は当然伸長してきます。

現実、表現の自由や言論の自由を堅持すべき、と考えていた私でさえ、今のSNSの惨状が続くのであれば、これ以上の被害を食い止めるためにも一定の規制を(電気通信事業法あたりで)掛けるべきと言う立場を取っています。

そのため『手軽に私刑で人をしばく』ことが続く限り、この『SNSに一定の規制を掛けるべき』と言う意見は伸長するでしょう。そしてそれが一定の規模を超えた時、SNSの未来は消えて亡くなると思います。

これは結局『私』の『正義』『大義』でしかない

ここまで長々と愚痴みたいな話を書いてきましたが、結局のところここで書いた話は私の正義私の大義でしかありません。

そして私は自分の正義や大義を安売りするつもりは毛頭ありません。なのでこれに賛同しろとも同意しろとも言いません。それは各自が勝手に考えることです。

正直、こう言った『正義』や『大義』の大安売りを買って私の『正義』に賛同する人はみんな仲間!一緒にインターネット石打ちで悪をやっつけようね!みたいな事を繰り返していれば、『次はお前たちだ』となるだけです。

そしてそう言う恨みつらみを買うしぐさを続け私生活を破壊し、あげく人を追い詰めて死に追いやる。そう言う事を続けていて、それが出来る場がいつまでも維持されるとでも思ってるのでしょうか

今でこそX(旧Twitter)が半崩壊しているから途中でポシャる可能性が残ってますが、このままXの様な人を手軽に追い詰められるプラットフォームが残り続けるのならば、SNS規制論は現実の良策と化していきます。

一応、私もインターネットを作る側の人間(Web アプリケーションエンジニア)をやっていた身ではありましたが、今のSNSの惨状は目に余ります。

確かに人によっては大人しくしていれば今のSNSも楽しめるよ!と言う向きもあるかと思います。それはそれで事実です。しかしこれは『正義に語る人間』に目を付けられなければ、と言う前提のもとです。

無自覚にも『正義を語る人間』は自分たちが気に入らない、と判断すれば何にであれ火を放ちます。それが人ひとりの人生を破壊する可能性すら有るにも関わらず、熟慮もせず手軽に、です。

しかも、それが他人の慶事(祝いごと)であったり、誰に対しても誇れるような受賞であったり、あるいは日々の活動が認められたがゆえの実績であったとしても、彼らは火を放って燃やそうとします。

この際だから言っておくと、今の私にはそんなもの許せるものか赦してたまるものかそんなもの、存在させてなるものか、と言う怨念焼き付いています。

だからこそ、私はSNS規制論者の立場を取ります。他人の尊厳を貶め、他人の人生を破壊し、あげく他人を追い詰め死に追いやる人工物、なんてものは規制されてしかるべきです。

もっともこれについては副作用や反対論などもあるとは思いますが、それ理解していても、私がこの結論を出すことには変わりはないと思っています。

そしてこれが私の怒りであり、怨念であり、悟りを妨げ解脱を拒む三毒の一つです。

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