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過度な期待をするからカドが立って収拾つかなくなる。

ワイは時代劇が嫌いではない。

好きなものはケーブルテレビの専門チャンネルで再放送見れるし、満足できる環境になったもんだ。特にお好みは池波正太郎原作のやつなんだけど。


特に鬼平犯科帳がお気に入りなんだけど、ワイが好きだったのは中村吉右衛門が主役していたシリーズね。渋さ、茶目っ気、声の質感だったり・・・演技が好きだったんだよね。あと脇を固める俳優陣も好きやったので、その印象が強く記憶に焼き付いておるのですよ。

で、今週初めに鬼平犯科帳をテレビでやると知ったんだけど、あんまり期待してなかった。主役が松本幸四郎ってことだけど、やはり自分に焼き付いた記憶とのギャップがあると落ち着いて見れないんでね。

だけど放送前のダイジェストを見たとき、『あ、コレおもろいかも?』と思ったの。なぜなら、松本幸四郎が演じる鬼平の横顔が映ったときに中村吉右衛門の面影を感じたから。まぁ親戚だからそうなのかもしれんけど。

で、声の質感や立ち居振る舞いなんかもスゲーいいの。ワイの中にある鬼平ってキャラクターを期待通り・・・いや期待以上の演技だったので、なんか嬉しくなっちゃった。


叔父である中村吉右衛門を彷彿とさせる雰囲気を纏いながらも、新しい鬼平を作ってくれたって言うのかな。『次回作も見てみたいぜ!』って気持ちにさせてくれたのです。

もちろん本放送は録画しましたよ。いや〜、いい時代劇だわ。

さてさて本題。

え?ここまでが本題じゃなかったの?ってくらい長文になっちゃいました。なので本編は少し短いです。シンプルです。ゴーヤといえばチャンプルーです。

人との付き合いにおいて、落胆する瞬間ってあるじゃないですか。

それって、結局のところはこう言うことじゃないですか?

〜勝手に期待して、勝手に落胆〜

自分勝手に相手に期待して、期待通りにいかなかったら自分勝手に落胆してるだけ。相手を責めて、怒って、幻滅する。『期待外れだった』と言い放つ。

その原因はどちらにあるか?

間違いなく期待した側です。


期待する側に問いたいのは『その期待感に具体的な根拠はあるのか?』ってことです。具体的な根拠を示せない期待は過剰な期待というものではないか?そのようにワイは思います。

『あなたならできると思った』

『これまで頑張ってきたからできるはず』

これでは根拠とは言えないでしょ?ただ期待に期待しているだけじゃん。期待を勝手にしてそれで落胆されても、期待された側も困るってもんです。

期待をしなければ腹が立つこともありません。落胆もありません。相手を責める言葉も生まれてきません。

そもそも期待するという行為は、相手に頼る・依存するのと同じ意味だと思うのね。相手に依存するから、期待通りにいかなければ期待した側が困る。不具合が生じる。だから相手を責める・・・そんな図式が成立します。

期待をしなければ、『うまくいかなかった時にどうするか?』という発想が生まれます。リカバリーを考えます。すなわち相手に依存しない思考になるってことです。

そして対応策を持っていれば、うまくいかなかったとしても相手を責める気持ちは生まれません。それよりも『どのようにすれば次うまくいくか?』と考えることができて、期待した相手と共有できます。そして相手も救われます。

期待するということは、相手に心の負荷を与えることに他ならない。

相手にストレスを与える行為を<期待>という一見キレイに見える言葉に置き換えて本質を隠しているだけなんじゃなかろーか。そのように思ったワケです。

もし、誰かに対して腹たったり幻滅したりすることが多いのなら、一度自分を振り返ってみてもいいんじゃないでしょーか?今まで気づけなかったことが見えてくるかもですよ。

そうそう。鬼平犯科帳の映画やるらしい。期待して待っとこ。

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「期待」をテーマに見つけた本。


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