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大切に握りしめた飴玉

「とても大切なんだ、この飴玉」

 とただ単に飴玉に対して、そう答える人はいないだろう。もしかしたら、大切な人からもらった飴玉や形見のようなものであれば、大切にしている人はいるだろうが、普通に考えて、飴玉はただの飴玉で舐めて味わうためにあるだけのお菓子である。しかし、僕らは意外とこの飴玉を力強く握りしめて中々手放そうとしない。そう、ここでいう飴玉とは自分の思い込みのことである。僕らのほとんどは、何かしらの思い込みにより自分の行動を抑制してしまっている。ポピュラーなことでいうと、お金がないから、時間がないから、そんなところだろう。これはまた嘘ではない。現実的にお金や時間がない人もいるからである。しかし、これの重要なところは、お金や時間がないから、行動出来ないという訳ではないということである。もちろん、お金や時間の呪縛は大きな鎖となって僕らを動かないように縛りつけている。でも、この鎖、本当は透明なのである。僕ら自身以外の人からは残念ながら見えていない。だから、他人から見ると何に縛られていて、何にその行動が止められているのか理解することはできない。不思議なものだが、この透明な鎖は思ったよりも僕らのことをきつくきつく締め付けている。そういうと、本当に外からみると訳がわからない話である。ただそう思っている人もまた、何かしらの透明な鎖で縛られているのである。まさに自分のことは自分が一番知らないというやつである。さて、鎖に縛られながら、どうしても手放したくない『思い込み』という飴玉もいつまでも握りしめていては、僕らの体温によって溶けてしまう。手がべちょべちょになってしまうのだ。それでいいのであれば、それでいいのだが、僕なら嫌である。早く手を洗いに行きたい。と、考えると、いつまでも飴玉を握っている場合じゃない。一刻も早く舐めて味わって、次の飴玉をもらう。もしくは、舐めてまずかったら、早く吐き出して、一回水で口を洗って、早くおいしそうな次の飴を食べないと。大体飴玉にも好みがあるのだから、まずいのと美味いのはあるはず。それでも、僕らはまだ大切に、大切に自分が手にした飴玉を握りしめたくなるのだ。時間がかかったのか、お金がかかったのか分からないが、誰にも渡さないぞと言わんばかりに。しかも、意外と誰にも見せずに、自分だけしか知らないような状態で持ち続けることもある。もはや自己満足もそうだが、何も意味もなさないし、宝の持ち腐れという言葉がお似合いだと言わざるを得ない。大切な飴玉を持っているなら、自慢でもいいから見せてほしい。もし、それを見た人が自分もあれば欲しいと思うならば、それはその人にまた新しい飴玉を与えることになるだろうから。おっと、どうやら飴玉という表現が、『思い込み』というものと『大切なもの』ということでごちゃごちゃになっているようだ。どっちがどっちなのかをよく見極めながら読んでくれることを願うしかなくなった。 大切に握りしめた飴玉、さっさと手放してしまおう。 

大切に握りしめた飴玉、独り占めせずにもっと堂々と見せつけてくれ。 

 ~fin~

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