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スマホ脳からの脱却

どれだけスマホに依存していても、その依存に気づかない。気づこうと思えば、気づくことはできる。それでも僕らはスマホが大好きで、スマホなしでは生きられないとまで言う。実際にスマホがない生活をして死んだことがないにも関わらずだ。

ここでは僕が著書『スマホ脳』を読んで感じたこと、実践、提案などを交えて論じてみたいと思う。

スマホ脳と聞いてなにを思い浮かべるか?

僕らはスマホという言葉にどのような印象を結びつけているだろうか。僕自身は冒頭に述べた通り、間違いなく『依存』という言葉を挙げる。スマホ自体は便利なデバイスであり、現代における18歳以下の子どもたちにとってはスマホはなくてはならないものであり、生活必需品のようなものである。一方のPCはほとんどの子どもが使っていないそうだ。先日あるラジオを聞いていると芸人の古坂大魔王さんがおっしゃていたが、今の子どもたちが動画編集やプログラミングなどPCを使いこなすことで、現代のスマホ世代の中では希少価値を生むそうだ。PC技術にそれだけ希少価値を感じるくらいだから、どれだけスマホが日常に溶け込んでいるか、当たり前の存在になっているのか分かる。

スマホにより失われた僕らの健康

スマホを悪という訳ではないが、間違いなく僕らの健康は害されている。もちろんスマホに限らず、様々なものに僕らの健康は良くも悪くも影響を受けていることはあらかじめ伝えておきたいと思う。そのうえで、スマホによる僕らの健康被害について考えてみよう。著書で述べられている内容の中で、特に印象に残っているものを挙げてみる。

・スマホにより情報処理速度が低下
・脳の報酬系を活性化させる
・子どもたちの遊びが減少
・報酬をすぐに得たくなることで、上達に時間のかかる学びに時間をかけられなくなる

これらは非常に印象的だった。スマホにより情報処理速度が低下する。どうやら手書きの方が良いようだ。最近は学校の授業でもiPadでのノート機能を利用したりしているようだ。僕が働く医療系のセミナーでもその光景はよく見かける。手書きのノートに比べても非常に楽であり、まとめることも簡単である。ましてや紙みたいにかさばることがない。この点では非常に有効的なデバイスである。しかし、どうやらスマホやiPadの利用はそのまま使えばいいのだが、インターネットがいつでもどこでも使うことができるため、授業やセミナーを受けながらもSNSやLINE、メールの確認をしてしまい、結果的に授業に集中できなくなるようだ。誰かと食事に行っても、つい目の前の机の上にスマホを置いてしまうことも同じである。会話や食事を楽しみに来たにもかかわらず、気になってしまい、画面が光る度に手に取ってしまうようだ。

脳の報酬化についても、恐ろしさを感じる。脳はそもそも快楽などを含めて、自分の快感情を刺激してほしいのである。スマホの画面が光ることや、SNSでのいいねが押されることや、ハートマークが押されるたびに気になってみてしまうのだ。いいねやハートマークが押される度に、甘い甘い飴や饅頭を与えてもらっているようなものである。この報酬に僕らの脳が異常な反応をするのだ。早く欲しい、早く欲しい、もらえた!というように、もはや餌を前にハフハフ言っている犬と同じ。そして、この報酬化システムを身体に頭に搭載された僕らは、スマホの奴隷と化しているのかもしれない。本書でも述べられているが、Apple創始者のジョブズも、社会に捻じれを作ってしまった、恐ろしい依存性を唄う程である。

子どもたちの遊びについて。これも間違いなくスマホによる影響である。今さら言うまでもないが、スマホを幼少期から使っていることは少なくない。育児で忙しいお母さんたちが子どもたちに、スマホのアプリやゲーム、YouTubeを見せて、おとなしくするようにさせている光景はよく目にする。忙しいのは分かるが、かわいいはずの時期、脳の成長における大事な時期をスマホに預けていいのだろうか。スマホに依存させる脳を培っていてもいいのだろうか。そんなことを知ってか知らずか分からないが、おそらく親もまたスマホに依存している人なのかもしれない。そういう面では、やはり親とはある意味模範になるべく、学びも成長も死ぬまですると決意していかなければ、今であっても、未来であっても子どもたちに示しがつかない。忙しいを理由に、避けていいことではないのである。子どもたちの未来、自分の未来をより良いものにするためにスマホも上手く活用することを覚えておかなければならない。

すぐに報酬を得られるようになってしまったことも問題である。スマホ1つで簡単に自分の報酬系を刺激することができるようになった。それがない時代と比較しても、短期的に報酬を得ることができるのである。ここでこの報酬を得ることにはある程度の時間が必要であり、その報酬を得るまで粘ることができる人はいい。しかし、短期的に報酬を得ることに慣れてしまった僕らは、上達や成果を得るのに時間のかかることを挑戦できなくなってしまっているようだ。短期的な報酬ばかり求めてしまうから、長続きしないのだそうだ。

子どもにとって望ましい時間配分

どうやら子どもたちにとって普段の生活において望ましい時間配分があるみたいだ。しかも、それを実行できているのは5%程度の子どもたちだけだそうだ。その時間配分とは、1時間の運動、9-11時間の睡眠、2時間以内のスマホ。これが1日の中で望ましい時間配分だそうだ。1日6時間も7時間もスマホに触れている成人たちからするとこれは難しいと感じてしまうが、子どものころを思い浮かべると決して出来ないことではない。スポーツクラブに所属して、夜8時か9時くらいに寝る。スマホが出現する前は、さらにこのスマホ時間はなく、しいて言えばテレビ時間に値する。参考程度にこの時間配分で生活をしてみるといいのかも知れない。

たった6分間の運動が情報処理速度を速める

これも聞いてびっくりだった。たった6分、これは短すぎるから変わらないだろうと。ただ、それだけで自分の情報処理速度を速めることができるのであれば、それはやるに越したことはない。また、運動に関してだが、半年で最低52時間は確保するべきだと述べられている。これは週の計算で言うと、週2時間の運動を確保せよということである。一見簡単そうに見えるが、医療現場で働いている僕からすると人間の運動時間は思っているよりも少ない。楽をしたいとか、無理をしたくないとか、やり過ぎると傷めるかも知れないという不安からほとんど動こうとしない。ただ、たった6分で自分の情報処理速度を速めるということが出来るのであれば、セミナーや勉強、仕事の吸収率、実践からの閃めきはもちろん、人生の重要な決断における迷いを断ち切るのにも効果的かも知れないと思うとやるしかないだろう。

運動時間の確保の実践からの変化(体験記)

これは僕自身が著書を読んでから早速実践してみた内容である。まずは半年で52時間の運動時間の確保。もともと僕の運動習慣は以下の通りである。

仕事日:朝10分ランニング、休日:朝20分ランニング

この計算で行くと、週に90分の運動時間となり、目標の120分つまり2時間にはあと30分足らない。ということで仕事日における昼休みに10分のウォーキングを追加してみた。

仕事日:朝10分ランニング、昼10分ウォーキング、休日:20分ランニング

今週から始めたわけだが、この計算でいくと、僕の場合は週4.5日勤務であるため、30分の運動時間は確保できる。これで週2時間はクリアである。当初の目的は運動時間の確保と、どうしても情報処理が遅くなる、つまり眠くなる午後3時から5時くらいの間における仕事のパフォーマンスを向上だった。僕の仕事はもちろんだが、誰のどんな仕事でも頭を使わなければよいパフォーマンスは簡単には出すことができない。この簡単な有酸素運動のおかげもあってか、確かに昼間の変な眠さや頭が働いていないという感覚は消失した。ちなみにだが、運動は不安から身を守るとも言われているようだ。確かに、不安よりは少なくとも運動をすることでできる自分というセッティングもされている感覚がある。どうやらこの運動時間を確保することは僕自身にはフィットしているようだ。新しい光景や自然を見ながら歩き、アイデアが浮かんできたりと、面白い発見もある。

前頭葉は環境の影響を受けやすい

どうやら僕らが自分の意思でよりよい選択や行動を取るには、前頭葉の持つ実行機能と呼ばれる能力が重要なようだ。Wikipediaによると『現在の行動によって生じる未来における結果の認知や、より良い行動の選択、許容され難い社会的応答の無効化と抑圧、物事の類似点や相違点の判断に関する能力と関係している』のが前頭葉の機能らしい。ということはスマホ脳により、情報処理速度が低下し、報酬系が活性化され、上達に時間のかかることに最後までチャレンジできなくなった僕らは、正直人間の進化的にもマズイのではないかと思う。僕自身も、本著を読むまでは休日7時間から9時間もスマホを触っていたという記録を見るとギョッとせざるを得ない。これぞまさに無駄な時間だと言わんばかりだ。

脳は終始、『今どうすべきか』を問うている

僕らの脳は常に、今どうすべきかを問いかけてくれているようだ。考えてみると、どの選択も決断もどちらにするべきか様々な天秤にかけて、こちらの方がいいという結論を導き出している。これが、まさに脳が問うてくれているからだろう。石川善樹さんという医師が『問い続ける力』という著書を出しているが、おそらくそういう脳の機能について述べられている本なのかも知れない。そう思いながら次に読む本としてストックしており、楽しみにしている。僕らは常に自分に問うていると言えば、随分と哲学的にも聞こえるが、本著を読んでいると僕らは間違いなく死ぬまで自分に問い続けるのだろう。ということは、自分にどんな問いをかけることが出来たかが、僕ら自身を作っているのだろうなと思える。

提案(後日、追加記載予定)

今回の本著を読んで、かつての自分と照らし合わせてみると色んなことが思い浮かんだので記しておく。まずは本文にも述べたが、授業におけるiPadノートの使用について。これは非常に便利だが、僕自身は手書き派である。しかし、今まで義務教育と大学、そして医療現場での研修など教育を受けてきたが、手書きノートの書き方や書いたものに対してそれが学びになっているのか、身になっているのかということには疑問を持っていた。世の中では様々なノートの書き方や取り方というようなノウハウは乗っているが、これもすべていいのだろうが、個人的に最も欠陥しているものがあると思っていた。それがノートのフィードバックである。中には取らない人もいるだろうが、おそらく学ぶ人のほとんどはノートに学んだことを書きこむ。最近だと、学んだ後にブレストしたり、ペアで学んだことをアウトプットするなどして工夫しているが、これは何か言わなければならないということで、適当に学んだことを口に出すような浅い感想で終わることが多いように思う。せっかく学んだにも関わらず、得られるものが少なく感じてしまう。しかし、ノートへのフィードバックとして、客観的に見てもらい、またしても脳にどんな学びがあったかを問うてもらうことで、より学びを鮮明にすることが出来るかもしれない。これは一部の提案だが、他にも様々な気づきがあったため後日追加記載してみようと思う。

終わりに

本著『スマホ脳』を通して、学びと気づきを得られたこと、そして運動時間については実践まで辿り着くことができたことは僕自身にも大きなことだった。是非、ベストセラーになった本著を読んで自分なりのスマホライフに役立ててほしい。



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