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パッケージのメディア研究②

 研究計画書に埋もれては,初めてゼミ運営に携わらせていただいた学部生の卒業を目前にして年度末だなあと感じている院生です,こんにちは.

 前回パッケージデザインを学術的に見てみよう的なことから,たばこのPEACEという銘柄のパッケージデザインの考察をしてみました.現場にいらっしゃるパッケージデザイナーさんも目を通してくださり,感想をいただくこともあり,本当に恐縮です.
 本日はパッケージデザインのデザイン史の中で,私が用いる方法論である「エフェメラ」という概念からパッケージデザインを見てみたいと思います.専門が大正時代なのでちょっと戦前のパッケージデザインということもあり,古いものを扱っていますがご了承ください.

1.エフェメラについて
 1.1.一般的な「エフェメラ」の概念
 1.2.メディア研究における「エフェメラ」
2.デザインとエフェメラ
 2.1.メディアとしてのパッケージデザイン
 2.2.パッケージデザインのエフェメラ性
3.まとめ

本日はこんな流れでゆるりといけたらなあと思っています.

1.エフェメラについて
1.1.一般的な「エフェメラ」の概念
 まず,先ほどから書いている「エフェメラ」という言葉ですが,のっけからなんぞや?という話です.私自身この方法論を採用するにあたり,まだ絶賛勉強期間であり知ってから月日は浅いので,まずは一般的にどの研究分野でどんな文脈(コンテクスト)において語られ,言葉を用いられるのか,というミッションと共に論文や文献を探してみました.
 結果,このエフェメラという概念は国外での研究が多く,英語論文が多く出てきました.このエフェメラに該当する日本語訳がないのでこのカタカナ語を使用すると研究者もいらっしゃったので,日本語では説明しづらい概念なのだと解釈しています.ただ,オックスフォード英英辞典の訳ですが,元々はカゲロウ(蜉蝣)のギリシャ語が語源にあり,そこから儚いものや短命,という意味を持っていることが記述されています.
 では研究分野ではどんなところで使われているのか,という話ですが2010〜2020年にかけてメディア研究領域で多く見られます.これは次節で掘り下げていきたいのでさらりと流します.その他,史学,建築,舞台芸術,また,既に「スプリング・エフェメラル」という昆虫の総称として専門用語を持っている生物・農林関係の学術論文が上がってきました.
 建築に関しては,プレハブだけでなく美術展のスペースなどの一過性・会期中しか存在しないスペースが短命的であり,その後の建物の保存についてやあり方について議論がされていました.舞台芸術や音楽については「イマココ」のようなその瞬間しか感じることができないものとかを議論しているのだと思います.(これはちょっと読み流しです,すみません.)
 史学については私が取り扱うデザイン史という史学にも似たところがあり,今挙げた他領域よりも明確に定義付けをしていて,研究史料としても文化的にも重要ではあるものの,なくなったり短命的であるがゆえに今は入手困難なものを指すような趣旨で述べられていました.戦時中のプロパガンダ系の物とかはそうかと思います.強制的に戦後焼かれたり墨塗り的に失くされたものもありますが,史実として存在していた史料としては貴重だ,という意味ではとても納得できるかなと思います.
1.2.メディア研究における「エフェメラ」
 さて,2010〜2020年という期間を先述しましたが,主に2010年前後のメディア研究系論文に多用されていました.メディア研究における「エフェメラ」とは一体なんでしょうか.論文に一番多く取り上げられているメディアとしては,SNSでした.確かに新しくスマートフォンの登場やインターネットの発展によって新たなSNSというメディアツールが誕生したのも2010年前後だと思います.私が大学に入学をしたのは2011年ですが,丁度その時Twitterが新しく大学の友達との繋がりツールとなっていって,mixiから移行してきた頃だったのを記憶しています.それまでは前略プロフィールとかでしょうか.そのうちにだんだんとInstagramが一般的になっていき,大学2年次にはTwitterとInstagram,そして早い人はFacebookを始めていました.
 一例としてあげるなら,近年はInstagramのストーリー機能でしょうか.24時間という制限があり,その間だけ閲覧できて,その後は本人のアーカイブでしか閲覧できないため他人にとっては「消滅」する情報なので気軽にアップロードすることができる機能です.
 この2010年前後というのは,ガラケー(フィーチャーフォン)からスマートフォンへの移行が多く見られた時期であると同時に,その新しいデバイスがもたらした新たなメディアのあり方として,メインとなる「メディア」が流動的に移行していた時期かと推察されます.そして,助教や他大のメディア研究者との意見交換の中で,ニューメディアの登場に際して以前のメディアの消費量が失われていく現象や以前のメディアと比較する際に該当する言葉として一番近かったものが「エフェメラ」だったということもあり,単純に儚いという感情だけの辞書的意味合いで使われる言葉ではなかったのだと思います.
 メディア研究領域において,「エフェメラル・メディア」という言葉が存在します.ただ,その定義も確固たるものではなく,前節の史学で使用されていたような概念を元に,このコンテクストでは「エフェメラ」を自分で定義してメディア研究(他の研究領域においても)に応用している状態で,目下世界も日本も議論中,という状態です.

2.デザインとエフェメラ
2.1.メディアとしてのパッケージデザイン
 次にデザインとエフェメラの関係性について,私の論を展開していきたいと思いますが,その前にまず,軽くパッケージデザインとメディアの関係性を述べておきたいと思います.
 修士研究ではロングセラー商品のパッケージデザインについて工学的検証を行ない,色彩学的な研究をしていたのですが,調査時にいつもついて回るのが「商品の顔」という言葉や「パケ買い」,「(インスタ)映え」など視覚伝達ツールとして,マーケティングツールとしてパッケージデザインが成立していることを痛感させられます.このグラフィックが〇〇とか記号論の方はさわりだけなので本格的にそっちを専門にしようとしたわけではなく,多少知っているレベルなので語れるほどの知識を生憎まだ持ち合わせていないのでそちらの分野は割愛します,すみません.
 パッケージデザインが立派な広告塔になることをきちんと論じなければならないのですが,パッケージデザインが商業美術としてきちんと成立するようになったのは大正期の大衆社会の誕生が大きな転機として挙げられます.それ以前は販売形態として量り売りであったり,自分が風呂敷や空き瓶を持って店で買ってきたりと,容器の使い回し,繰り返し使うという行為が普通であり,その風呂敷や瓶などはパッケージではなく「包装」というモノを保護し,梱包し,運搬する機能を持っていました.背景にはパリ万博などが挙げられますが,明治後期から徐々に西洋化していく中で,上流階級や華族などに行き渡っていた舶来品も大正期に入ると一般市民階級の人々も楽しめるようになってきたのです.大正期に入ると百貨店が「流行」という文化の流れを作り始め,大衆社会の誕生と共に一気に社会は「西洋化」,「モダニズム」といったものになり新しい購買行為と消費体験がもたらされました.手ぶらで店に行き,その店のロゴマークや店名が記載された袋を持って帰る.今度はその袋を持った人たちを見た人たちが,店を訪れるといった,今までの包装にはなかった「コマーシャル」の機能が包装に付随し,だんだんと商業的なツールとして発展し,更には百貨店の袋や包装紙だけでなく,商品を梱包する容器,そして印刷技術の発展から紙容器に印刷するデザインで消費者の購買意欲を掻き立てようとする潮流になっていったと,少し噛み砕いて記述させていただきました.そのため,現在私たちが聞く「パケ買い」や「(インスタ)映え」といった見栄えの良さから購買意欲に繋げながらも,その商品イメージを伝える役割をしているのがパッケージデザインだと考えております.
 言い直すと,パッケージデザインはメーカー側が商品(製品)情報を消費者に伝えるためのコマーシャル機能を付随したメディア(媒体)だと定義します.
2.2.パッケージデザインのエフェメラ性
 ここからは,パッケージデザインをメディアだとみなした上で論を展開させていきます.例えば何か商品を購入したとします.(お菓子でも煙草でもお茶の缶でも漬物のパックでもジャムでもなんでもいいです)その後,中身にあたる商品を我々が消費した後残るのは「容器」だと思います.素材は様々ですが,とにかく何かその買ったものを包んでいたり商品が入っていた外側が残ると思います.そこには商品名や商品の情報,食べ物なら原材料,はたまた一面何かの柄だけれど商品のアイデンティティかもしれませんが,何かしらが印刷されていると思います.たまに真っ白の箱,とか何もない,とかあるかもしれませんが,瓶のラベルにしろ白い箱にしろ,その素材(マテリアル)が何であるか,印刷されたものはどんな印刷技法を使って刷られたのか,容器の形や作り,造形がどうなっているのか.それをじっくり観察すると,案外時代性や商品の裏側にある「過程」が見えてきます.
 例えば使われている紙が新しく開発された紙であればざっくりとですが,戦後の比較的新しい素材だ,とか,この時代に発明された紙だ,とかそういったものが分かったり,この構造の箱やこの開け方の容器はある時代に流行したからその時代の名残だ,など史料鑑定にも色々と「観察」する行為は研究には有効的です.
 ですが,何か買った時にいちいちこれは〇〇だ,と観察をするでしょうか?勿論パッケージデザイナーやクリエイター,モノづくりに興味があったり,特定の範疇の人は気にするかと思います.しかし,一般論として,パッケージは中身を消費してしまえば捨ててしまいます.何でもかんでも取っておいたらガラクタや食品系のものならばゴミと呼ばれてしまうかもしれません.多くの場合,捨てられます.
 捨てられるということは,消耗される・失くなることです.史学的なエフェメラの定義を用いると,失くなることは日常生活の上では普通のことですが,この普通の日常的なモノから時代性を読み解くための史料としては非常に重要性の高いモノです.そして消耗と記述しましたが,同じ広告の機能を持つ広告・ポスターとの大きな違いは「短命性」にあると思います.広告・ポスターは展示の会期やイベントの期間はずっと使用され,ある期限までは必ず掲示され個人が体験した後も会期中であればずっと個人の意志にかかわらず広告としての機能を果たします.しかし,パッケージは個人が商品を消費した瞬間に捨てられる,個人の商品を通じた体験を終えた瞬間に広告としての機能を手放してしまうことから広告機能の欠落,短命的な(エフェメラ)なメディアとなってしまうのです.

3.まとめ
 この「エフェメラ」については確固たる定義が依然として成立していないので,私が紙箱というパッケージデザイン研究を行なう上ではきちんと私自身が定義しなければならない言葉です.
 その上で,今回はパッケージデザインのメディアとしての寿命に関して,エフェメラという言葉を用いて「パッケージデザインをメディア研究する」ことを書かせていただきました.デザイン研究は本当に多彩な方法論で論じることができるので,工学的視点やもうデザイン人類学という言葉が英語で存在していることも発覚してしまったので文化人類学とデザインを結び付けることも可能だと思います.
 パッケージデザインは日常的に目にするものですが,そのさりげないデザインの中に多くの情報が盛り込まれており,デザイナーはグラフィックや造形にその情報を託し,その捨てられる・着脱されることを前提とした広告に対して物凄い熱量を注いでいます.これは実際にパッケージデザイナーの方のお話を伺った時に感じたことですが,容器なので捨てられると分かっていながらコンマ以下の世界でデザインをして広告を作る.そしてそれを私たちは短期的に消費しています.(そして私のような変わり者がそんなパッケージを収集しています.)
 メディア研究で語られるエフェメラのコンテクストについて,私はまだ勉強中なのですが,一度整理と自身の視座として頭の中を言語化してみました.メディア研究の方々に勉強不足だーと言われたりパッケージデザイナーさんに現場とは違う,とご指摘されるのも覚悟の上ですが,現時点での私の視座なのでパッケージ研究をする上で,勿論工学的視点もマーケティング的に大事なことですが,デザイン史として研究していく上でメディア史,広告としてメディア論の視点で研究することもまた,新たな視座として持ってきても良いのではないでしょうか.
 「売れなきゃおしまい」と言われたらそれまでですが,個人的にはなぜそれが売れなかったのか,売れなくなって「失くなる」ということが社会にどんな影響を与えるのか,といったことが知りたいという感じです.まとめはちょっとゆるっと書きましたが,基本的にパッケージデザインの「社会的な意義」や「存在が与えた社会への影響」を大きなテーマとして研究しておりますゆえ,少しマーケティング分野とは離れた視座となっておりますことを最後に記載しておきます.

今回も長々とすみません.
ここまでお読みくださりありがとうございます.

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