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毒親、毒家族とは?そしてそこからの解放(とっても個人的な意見)

 最初にお断りしておきますが、私は社会学者でも、心理セラピストでもない。
専門家じゃない。

 ただの毒親育ち経験者です。

 今回は私が経験した「毒親」「毒家族」とはどういうもので、そこからどう自分の心を解放したかを書いていきます。

 前回の記事に書いたように、私自身では毒親からもらった毒のデトックスは寛解したと感じています。

 これについては精神科医にも内科医にも判断はできない。
自分自身がそう感じているからそうなんだという感覚です。


 さて、毒まずは親育ち経験者(自称)の思う、「毒親」「毒家族」について書いていきます。

 うちの両親も自分たちが娘(生物学上)に「毒親」なんて呼ばれているとも思わないでしょう。
「アンタたちのために親が犠牲になって育て上げたのに」
と、思っているかもしれません。
この思いがそもそも「毒」だなんて気づいてはいない。
 もし彼らが未だ生存していたとして、私がこの言葉を彼らに放ったとしたら、私は飛んだ人手なし扱いされるでしょう。

彼らには私がなぜーそんな風にいうのかが理解できない。
 子供にとって毒親はいつまで経っても子供のことを理解してくれない存在。それも死ぬまで理解できない柔軟な思考を持ち合わせない人たち。

 もし奇跡的に生きている間に毒親的な発言や行動を改善してくれて接してくれている、と子どもが思えたとき、その時はもう毒親ではなくなるんじゃないでしょうか?
 うちの親はそうではなかったから、これはあくまで想像です。

 それから「夫婦仲が決して円満でない両親」。これも毒親です。
 なんらかのご縁があって結婚されたんでしょうけれど、子供の前で罵り合うとか。
「憎悪」のエネルギー撒き散らされるなんて毒以外の何ものでもない。
 うちの場合は、母が父を罵り怒鳴り散らす。父は母を宥めようとするも成す術なく、結局逆上して怒鳴って場を離れる。

母親の機嫌が悪いと、子供たちは「自分たちに八つ当たりが向くかもしれない」とか「ごはんつくってもらわれへんかもしれへん」とか、生存の危機を感じるので母親の機嫌をとりに走る。
母は子供に父親の悪口を言う。
言われることで、子供たちの父親に対する意識は徐々に書き換えられていく……。
これは我が家のパターンであって逆もまた当然あると思います。
 うちの両親は昭和一桁に近い年生まれなので、典型的な「男尊女卑」思考が染み付いた人たちだったので、母がどれだけ父に文句を言っても母自身も「夫には逆らえない」、父自身も「妻が何を言ってもワシにはさからえん」という思い込みは強くあったと思われます。

 うちの母の場合は自分を正当化するために、自分のことは棚に上げて、とにかく父親や祖母を悪者に仕立て上げて子供は自分の味方にしようとしていました。
そしてさらにタチの悪いことに自分が「良き母」つねに「正義のポジション」に立ちたいがために、姉には私の悪口を、私には姉の悪口を言ってました。
 これらを我が母は無自覚で行っていたのです。
自分の身を守るために……。


 そんな毒だらけの思考の中で育った私たちは「毒を吐くのが当たり前」になるわけです。
余談ですが「鬼滅の刃」に出てくる上弦の鬼の半天狗見てると、昔の自分思い出します。
母親そっくりでその気質を受け継いでしまって、そうやって我が身を守っていた頃の自分。
「女」だから「弱さ」をアピールして何事も回避しようとする卑怯者。
炭治郎が「卑怯者!」と彼に言い放つたびに胸が痛い……。あの頃の自分は気づかないうちにそうやって誤った自衛をしていたなぁ……。反省。
 話がそれました。

 他にも毒に塗れておかしな思考で社会に放逐されて、自分自身にも周りにも迷惑をかける。

 けれど、そう言うことは多少なりとも誰にでもあるとは思うのです。
そこで普通ならおそらく「これでなダメなんだ」と気づいて自分で変わろうと努力して「自己」を確立していくのでしょうけれど、毒親育ちの子供たちの多くは「その強さ」が乏しい。(ないとは言い切りません)
なぜかと言うと毒親の最たる毒は「子供の自己肯定感を育成しない」ことです。
どっちかと言うと奪っていきます。

「どうせアンタなんか」とか「長続きしないから無駄な努力」とか。
それでもめげずに頑張っても完膚なきまでに叩気の召される。
 母親から言われた言葉の一つで、ざっくり胸に傷つけられたのが、
「姉ちゃんでやってもあかんかってんから、アンタがやっても無理やって!金の無駄や!」

 私という個性を見て判断しているわけではないという、なかなかに辛辣な言葉。
 自己肯定感も何も、根こそぎ私の人格認めてない。

さらには私が小さなノートにつけていた3行日記を私の目の前で床に叩きつけて、
「あんたの文章なんて誰もみたくない!読む価値ない!紙と鉛筆の無駄やからやめてしまえ」
と床に叩きつけられた。
 書くことが大好きだった自分を丸ごと否定されて、私は泣き崩れた。

 こんな言葉を日々かけられて育った子供のどこに「自己肯定感」が育つのでしょう?

 毒親に育てられた子は、その自覚もないままに毒を吐き、家族みんなが毒吐き倒して毒家族を形成していくわけです。

 怖いですね。


 さて、この状態からいかに毒親に注ぎ込まれた「毒」をデトックスしてゆくのか?
毒親を毒親でなくさせるにはどうすればいいのか?
 自分自身が毒親寛解に至った今、私が言えることは、

「自分の世界、価値観を変えること」

です。


 私の場合は過去に書いた「#毒親」のついた記事でも毎回書いているのですが、自分の本質を知ったことで世界と価値観が変わりました。

 それは抑圧を受ける中で、父や母が繰り返し私に浴びせかけた先皇word「女だから」「女らしく」「妹だから」などの「女性生」を押し付ける言葉でした。
この言葉を聞かなければ「私はこの家族の一員でない」「見捨てられる」「認めてもらえない」と思い込んでいたわけです。
それまでに浴びせかけられていた、徹底した家族内家庭の最下層民として、徹底して家族の中でみんなから、特に女性たちからサンドバッグのように「お前はあかんやつ」を叩きつけられました。
 頑張って下剋上を目指して家族の中で最高学歴を手に入れましたけれど、「勉強好きでも実際には役に立たない」とか「高い金出して大学院まで行かせてやったのに、ろくな稼ぎも得られへん」などと言われました。

 もしかしたら私がここで根性見せたらよカッなのでしょうが、自己肯定感の低い私はこの時点で精神を病んでしまいましたから、それ以上の頑張りは無理だったんですけれど。

 精神を病んで四半世紀、自分が無いなりにもがき続けてきた中で、出会ったある人から「君の両親は毒親で、毒家族なんだよ」と指摘されてから「うちの家族のどこが毒家族?」と必死で考えました。

 すると母親の常軌を逸脱した言動の数々に気がつき、なぜそんなことになったのか?
父との夫婦仲がよろしくなく、父親を自分に振り向かせようと浴びせる言葉は怒りの言葉ばかりで、父は外に救いを求めて家庭を顧みなかった。
そんな毒だらけの家で育った姉妹は互いに毒をぶつけ合う。
年が離れていたこともあってか、お互いに「こいつさえいなければ、両親、家族の愛情は私のもの」と思い込んでた節があります。
その感情を焚き付けたのも母の無意識の言動なんですが。

 とにかくそんな事柄を整理していく中で、私がひどく「女性性」に対して激しい嫌悪感を持っていることに気がつき、さらにそれを丁寧に観察して、友達の助言なども聞きながら推察していった結果導き出たのが、
「私の中にオカンやねーちゃんみたいな女性の部分があるんが嫌なんや!」
でした。
 しかしさらにまだ「女性」であるはずの自分に違和感を持っていた私は、これまたあるきっかけで、
「私、女性やないわ!」
と気がつきました。
 トランスジェンダーの自分を無意識に身の安全のために隠そうとして強く思い込んでいたことで、「自我」がぐずぐずになっていたことに気がついたのです。

 と、私の場合は「トランスジェンダーの自分に気がついた」が、毒親からの解放につながったわけですが、皆さんが全員ジェンダーが問題とは限りません。

要するに「親に見捨てられるかも」と思って抑制していた自分の本質的なところを取り戻し、刷り込まれていた価値観を書き換える、塗り替えるをすると、毒親デトックスがうまくいく……
ということです。

 毒親問題を解決できるのは、何より毒親育ちの本人が自分を取り戻す。自己肯定感を持つ。自信を持つ、に限ります。

親がどう頑張ったって、子供自身が「毒親認定」してたらどんな愛情注がれたってそれは毒にしかなりません。

 そうならないようにするには、できるだけ自己肯定感の高い子供、失敗しても取り返せる経験とか、成功体験なんかを積ませてあげてください。
多分、私が思うにただの成功体験よりも、失敗の後の成功体験が大切だと思います。

 これを書いていた時に、ふと思いなしたのですが。
小学校2年生の頃、普段は家にいない父がたまたま家にいて、私と一緒に炒り卵を作ってくれました、
実は、その数日前に一人で卵焼きを作ろうとして勝手に作ったらフライパンをダメにするような失敗をしてしまい母親にこっぴどく叱られたのでした。
 このことを私は炒り卵を作る時に父に話したと思います。
父はそばについて見守るだけ、口は出しても手は出さず、で一緒に炒り卵を作ってくれました。
そうして出来上がった炒り卵は父と私好みの甘い炒り卵でとても美味しかったです。
 出来上がった炒り卵をお皿に乗せて、なんとも言えない達成感を持ってそれを見つめていると、
「松生、君は小学2年生で炒り卵を作れるようになりました。ここに表彰します。これからも卵料理を覚えましょう」
と誉めてくれました。
 すごく恥ずかしかったけれどそれ以上、もっとすごく嬉しかったことを覚えています。

 父はどう考えても毒親なんだけれど、こういうエピソードがちょいちょいあって私の中では憎みきれない人なんです。
この思い出もあれば脳震盪起こすほどの平手打ち喰らわされたり、投げ飛ばされたりもしてたのに……。
まさに飴と鞭でした。
 こういうところもやっぱり毒親かな?

 これを書いたおかげで、父との良い思い出が思い出せました。

そしてこの長い文章を最後までお読みくださったあなたさま、ありがとうございます。

全ての子供と家族が幸せな気持ちになれることを願っています。

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