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【映画レポ】『裸足になって』~私は奪えない~

2023年7月公開の映画『裸足になって』(原題 Houria)。主人公の名前「フーリア」。レビューやキャッチコピーよりも深い映画だった。タイトルも実は『フーリア』がぴったり。(→翻訳や諸事情はあったのでしょう)。まさに『わたし』の映画ですという内容。胸が苦しくなるような、もう、どうしたらいいのよ!みたいな気分になる場面も多いけど、必見!

製作総指揮が「コーダ~愛の歌」のトロイ・コッツァーが務めたということで、「あのお父さんの作品か」と思って観に行った。

(若干ネタバレですが大事なので)踊ることに心身を捧げる毎日、お金を工面するのに苦労は絶えないが、同じくダンサーであり一番の理解者であるお母さんの為に車をプレゼントしようと、闇の賭博に手を出して、、、お金は手にしたものの、その帰りにテロリストの前科があって(も野放しになっている)男性に狙われ、突き飛ばされて、ケガをし、踊ることができない、(ショック等で)声を出すことができない状態に。そこからの復活ストーリー。

ストーリーは映画を是非観て欲しいのですが、私が一番最初に感じた「胸が苦しい」ポイントは、「おまえは黙っていろ」「おまえは何もするな」と理不尽に強烈におさえつけられる衝撃的な経験をした主人公。声を上げようとしても、声も出ず、理解者のお母さんも一緒に奮闘してくれて、外部に助けを求めに行った先でもだんまり・・・。忖度、諦め、恐怖、、、何が正義と分かっていても人を抑え込む種はたくさんある。

現代を生きていても、社会、会社、自分以外のからのパワーやプレッシャーはいろいろある。その都度、キャンキャン吠えるのそれはそれでパワーがいるけど、本当に自分の奥底の琴の音に触れた時、絶対にこれだけは譲れないという瞬間に向かいあわざるを得ない時、自分の中のマグマが静かにも熱くなる時が人生の中にあると思う。負けない、諦めないなんていう次元でなく、アドレナリン500%な感じ。

映画をみながら最初にふと頭をよぎったのが、『千と千尋の神隠し』で名前を奪われるということの意味、つまり、「私」がなくなること。個性とか私らしさとかの前に「私」がなくなる感じ。でも、生身の人間としては生きているので、人格をもった人としては、透明人間になる感じ、とてつもない空虚感。

その後、『アナと雪の女王』のエルサのように、力強く、自分の軸から「私」を取り戻していく。エルサも、恐怖から凍らせることしかできなかった力を溶かしたり、愛で雪や氷で人を楽しませたりするパワーに変えていく。エルサとお話したことはないねですが(苦笑)「ありのままで~」も楽じゃないはず。自由にやれとか、好きなことしろとうか言うのをよく耳にするけど、どれだけ重い抑圧の蓋を、どれだけ重なりあった抑圧の壁を壊していけばいいのよ・・・そんなら一人でいいよ・・・と思いたくなる気持ちもわかる気がする。

この主人公。すごいんです。自分で蓋も壁も押しのけて行きます。俳優さんのパフォーマンスも素晴らしいのだと思いますが、自分の中に湧き上がり続ける踊りへの情熱、魂の声(思いっきり踊りたい、なのに悔しい、なんてことするんだの怒り、世の中なんでこんな状況なんだの憤り・・・)。その全部をひっくるめて、新しい仲間(ろう者の友人・生徒)新しい場所(自宅の屋上のお手製の場所)踊るのが最後のシーンなんだけど、絶対に私の大事なものに触れさせない、ケガで私の身体的な健やかさを奪っても、声を奪えっても、これは絶対に私から奪えない。「私」を誰も奪えない。そして、私は、あなた達が奪えない最強の言葉(=手話をモチーフにしたダンス)でそれを表現する。(奪えるもんなら奪ってみろ・・・とはセリフはないですが、そういうエネルギー)。「私」を渡さない姿は圧巻。言葉は要らない。ラストシーンが全て。

『コーダ~愛の歌』でお父さんは主人公に「歌って」と言う。自分は聞こえないけど、娘の喉や身体の振動通して歌を聞く場面がある。涙なくしては見られない感動の名シーンだけど、あのバイブレーション。まだ若い不安もいっぱいな主人公だけど、私は「歌いたい」、ただそれだけのシンプルな強い強い思い。

フーリアにももし同じ空間に住んでたら「踊って」と言いたくなる。彼女が新しく会った仲間がそう言ったように。それがあなたの生きている証だから踊って。

世の中のみんなもあるんじゃ、そういう生きている証

私の生きている証ってなんだろう。上手とか下手とかじゃなく、なぜか資本主義・貨幣経済にどっぷり浸っているけれど、お金も関係ない・・・何か私が存在する証。世界のひとりひとりの人が存在する証。

その深いことまで考えてしまうような、エネルギーのある作品でありました。是非映画館でどっぷり浸りながら鑑賞をおすすめします。さんきゅ~


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