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不自由とは相対的な「大小」ではなく、本人の実感での「有無」なのだと思う。

私のこの話をどれだけの人にしているのか分からない。仲のいい人にも誰に伝えたのかがわからない。
秘密にしてるわけでもないし、特別な話題扱いしてるわけでもなく、ただ、成り行き上話すことになったとき、天気の話をするくらいの軽さで伝えてることがある。

「あ、手帳持ってるの。身体障害者手帳。」

これくらいのそっけなさで伝えてるのではないかな、と。

等級は4級。
体の肢体機能の一部が全廃し、生活に一部支障が出るからこの等級だ、と教えられた。

不自由のボーダーライン、身体障害のボーダーラインはどこなのか?

私に会ったことがある人はわかると思うけれど、「身体障害者です」と言われてもどこが不自由なのかがピンとこないくらい、生き方も暮らし方も至ってフツー。むしろこの体になって今までの十数年で、「あれ、脚悪いの?」「怪我してる?」と言われたのは階段を上っているときくらいだった。

そう言われることで気づいたのは、「脚が悪い=障害者手帳を持っている」という発想に至る人は殆どいないということ。私の不自由は、「身体障害者」ではなく、「怪我をして階段昇降活動に支障がある人」と同じなのだ。私の場合は、それが半永久的に続くから障害と呼ばれているものの、それは膝の悪い人とどう違うのかというと、はっきり違いを説明できないな、と思う。

そして今、日常において自分が不自由だと思うことにほとんど出くわすことはない。
もちろん、階段は一段ずつしか登れないし、座敷で足を折って座ることはできないけれど、別に階段を自分の脚で上れない訳でもなく、座敷に座ることができない訳でもない。
この体になりたての頃、なんでもなかった自分との差分に随分と辛い思いはしていたのに、そんなことはすっかり忘却の彼方。今はこの体での生活に慣れたことで、心理面での不自由から解放されたんだろうなと気づかされた。

とはいえ、「身体に不具合がある私」は事実で「自分は障害者ではない」とは思わないけれど、「障害者である」とも思わずに生活ができているから、実際そのラベリング自体はどうだっていいとすら思えている。
障害は個性だ、とか「害の字がネガティブだから呼び名を変えよう」とか、そういう名称や存在の解釈の仕方という些末なことを気にせずにいられること自体が重要だ。

「不自由」とは、身体・状態・条件が不利と思われる者と、いわゆる普通・健常と言われる者との差異で決めるような客観的なことではなくて、「不自由があるとされる者自身が違和感の実感を持ち続けているかどうか」という、とても主観的なものだと思っている。

不自由に対して「配慮」は必要だが、“第三者が推測する”「決めつけ」はいらない

ところで、話題は今放送中の朝ドラ、2018年前半クールの「半分、青い」へと移すけれど、永野芽郁ちゃんが演じる主人公・楡野すずめは小学生の頃に左耳を失聴し、半分だけ聴こえないという設定だ。

朝ドラを見ていてリアルだなと感心している点は、失聴して間もない頃に比べ、そこから20年ほどたった今の生活で不自由そうにしているシーンがほとんど出てこないということ。時折「左耳が聞こえない」と伝えるシーンはあっても、その文脈で身体の不自由を強調するような描かれ方をされていない。

一方、松雪泰子さん演じる母親の晴(ハル)さんは、「あの子は左耳が聞こえんから……」と不自由を前提とし、就職や結婚などで不利になるとすずめの人生を案じている。当事者でないが故に、想像する方が本人の不自由を意識してしまいがちな点もまたリアルだ。

可愛くて仕方のない愛娘を想い、身体的な不自由を不安に思う母親の気持ちもわかるが、当の本人は耳が聴こえないこと自体が普通になってしまっていて、よっぽど精神的に辛い状況に追いやられない限り、普段は自分の人生が不自由で不利だとは思っていない。当事者のすずめとしては、晴さんのお節介がいくら優しさからくるものだとわかっていたとしても、正直少しウザいと思っているんじゃないかなと感じながら見ていた。(実際、わたしの母も同じような感じだから、ちょっと気持ちがわかる気がするのだ。)

もちろん、他者に自分を評価されるような就職や恋愛、仕事での評価において、うまくいかない原因が思い当たらない時、「もしかして身体のことが理由なのかな……」と思わなくもないけれど。さほどクリティカルに思って日々過ごしているわけでもない。

***

しかし、多くの人は「できないこと」がある人に直面すると、「できない=足りないorマイナス」と捉えてしまい、どう接すれば良いのか迷ってしまうのも事実としてあり、状態を正確に理解することは容易ではないので、「相手を傷つけないか」とデリケートに扱いがちになる。それ自体には何の非もなく仕方がないことだけれど、「決めつけ」からは「哀れ」が透けて見えたりもするので、不自由と決めつけた「配慮」は、ありがたくもあるが、案外受け取りづらいものにもなり得る。

当の私も幾度となくこういう場面に出会ってきて、「こういう状況はどうすれば解消できるのだろうか」とずっとずっと考えてきた。

結局「お互いに素直で正直な気持ちを話す」ということ以外に最適な方法はない

「不自由なんだ」を伝える側としては「これを言ったら相手が変に気を使わないだろうか?」「面倒臭いと思われないかな」と思ってなかなか打ち明けづらいだろうし、聞かされる側は「どう反応していいか、どこまで聞いていいのかがわからない」と思っていたりするけれど、憶測から先にはなんの正解もない。

まずは自分のことを伝え、「できない」をなんの色もつけず「状態の事実」として受け取ってもらうということ、それだけでいい。
そして、お互いに「こんな遠慮はお互いになしね」と伝えておくことも大事なように思う。

何を言いたかったのかと言うと、他人から見た不自由は、当の本人にしてみれば案外ただの日常で、不自由だと思っていない。また、相手も知らなければ「気を使う」こともできないから、やはりお互いに歩み寄っておきましょうと言う話。

ということで、もし私の体の話を聞くことがあったとしても、事実を述べるだけなので、気楽に聞いてやってください(笑)

例えば登山やランなど、私の機能的にできないことがあったとしても、別のことをしてでもどうにか一緒に時間を過ごしたいと思っていたりするものなので、お誘いは遠慮無くして欲しいとも思っています。

実は膝に入れている人工関節の部品が4年に一度ほどのペースで磨耗して壊れるというのが私の慣例となっているため、部品交換し元の状態に戻すための手術を受けるので、しばらく入院することになりました。というご報告も(笑)

***

最後に、先週の大雨により西日本の広域で甚大な被害が出てしまいました。私の出身である大好きな岡山も大きな被害を受けていて、真備町の光景を見るたび悲しい気持ちになってしまいます。
また、報道されていない多くの地域でも水害に合った人たちがたくさんいるとも聞きました。

今回の被災により多くの人が生活や後始末に追われ苦労されていることと思います。少しでも早く不自由を感じない暮らしに戻れるよう、ただただ祈るしかできません。
私も少しばかり支援金を申し込みました。気にしてくださる方は是非下のリンク先にて詳細を。

このノートは投げ銭形式のため、最後まで無料でお読みいただけます。
もし幾ばくかいただけるようでしたら、新しいチャレンジと岡山のことを思った何かを取り組むために大切に使わせてもらいたいと思っています。

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