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〖短編小説〗2月12日は「ブラジャーの日」

この短編は1011文字、約2分30秒で読めます。あなたの2分半を頂ければ幸いです。

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道端にアンジェリカがいたら、それは道端アンジェリカだろう。
道端におむすびがコロコロしていたら、それは穴に落ちるから、そのままコロコロさせておこう。
道端にピンク色の可愛らしいブラジャーが落ちていた時は、その時は、、、

厳しい自然の中に咲く、可憐ながらも凛とした一輪の花のように、そのブラジャーは大都会の喧騒の中、突然私の前に現れた。東京の街はアスファルトジャングル。ビルとビルの間に猫の額ほどしか見えない青と、ゴミ箱のポリバケツの青くらいしか色などない。そんな灰色の世界の中に、ポツリと落ちているピンク色は、とげとげしい赤ではなく、ピンクだ。

時間が止まるとはよく言ったものだ。ブラジャーを見ていた私の時間は止まっていた。ピンクにこれほどまで目を奪われるとは思いもしなかった。所詮はただの女性用の下着。言ってしまえばただの布切れ。そう布切れのはずだ。しかし分かっているのに目を離すことはできなかった。

硬いアスファルトの上に、柔らかなブラジャーがある状態が、逆にブラジャー本来のあるべき姿を追求し、それをあらわにしているようだ。
あぁ、綺麗だと思う。
ブラジャーは本来は女性の胸につけるもの。それが正しいあり方だ。ところが今この状態はどうだ。しっかりと胸を支えるはずのブラジャーが、おのれの役割を放棄したかの如く、自立を失い、重力に敗れ、汚い道端に力なくへたり込んでいる。
本来は休む場所ではない、この場で疲れ切って仕方なく横たわるように。

こんな奇跡のような状態を、他の誰かと共有したい気持ちになったが、さすがは東京。多くの人々が行き交っているが、足を止めてブラジャーを見る人などいない。嘆かわしいことだ。こうして東京の一瞬の奇跡は忘れ去られていくのか。風でブラジャーが少し動く。あぁ、綺麗なピンク色が汚れてしまう。

私は慎重に近づき(可笑しい、生き物ではないブラジャーは逃げはしないのに)手に取ってみたいと思った。いやらしい気持ちは最早ない。本能に従い止められない衝動に動かされる。そして頭で想像してみる。重さはどうか、レースのディティールは、ホックの形状は、外に置かれているから冷えて冷たいだろうか、、、

しかし私はそのブラジャーを手に取らなかった。正確に言うと取れなかった。寸前のところで、いけないと思った。私が手にとった瞬間にすべてのバランスが崩れてしまうから。世界の均衡を崩してしまうから。ブラジャーとコンクリートの接点を1ミリでも離してしまうと終わってしまう。そのまま、そのまま。

道端に突如現れたブラジャーは、さらに風にあおられて少しだけ下水溝の近くに移動した。

2月11日は「ブラジャーの日」


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