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北海道

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日本人はもちろん、海外でも。
人生の中で、一度は必ず訪れたい「あこがれの地」北海道。

私が北海道という存在を知ったのは、小学生の時だったと思う。
国語の教科書か、それともテレビのコマーシャルだったのか、クラーク博士の「少年よ、大志を抱け!」という、名言との出会いから始まる。
それは同時に「ボーイズビーアンビシャス」という英文の音として、暗記されていた。今考えるとこの一文章は、人生の中で始めて出会った英文かもしれない。

またその時「なぜ少年なの?少女は?」とか、「大志って、なに?」という強い疑問を誘発させ、「もしかしてその答えが、北海道にあるのでは?北海道に行かなければ。」という思いを、何気なくいつの間にか抱かせていた。


またもう一つ、同じ頃、テレビ番組で出会ったムツゴロウさんこと畑正憲氏の存在も大きい。北海道で動物王国をつくって生活する彼の生き方は、動物好きの幼い心には「将来の夢」として描かれていた。

「大人になったら、たくさんの動物と一緒に、北海道に住んでみたい。犬は何匹、飼おうかな。」純真な子供の人生設計は、無限大に膨らんでいた。

人生を通してそれ程まで、北海道に片思いをしていたにもかかわらず、今まで一度も訪れる機会がなかったことが不思議だ。
それも会社の拠点もできて、いつでも行ける環境だったにもかかわらずだ。
しかしこの1年間で、土地や地域との「出会い方」を知った今だからこそ、やっと実現することができたのだろう。

ちょうどそんな時、人類歴史と地理を愛する同僚が言った。
「北海道はすごいよ!一緒に行こう!」と。
韓国の地からアジアを通して、北海道の「本当の価値」を発見し再認識したとき、やっと北海道に出会うことが許されたのだ。
その感動を伴う募る想いは、今でもこの瞬間も、抑えきることができない。


飛行機は韓国の釜山から、海の上空を二時間半程飛ぶ。
雲の間から、遂に陸地が見えてきた。
原生林らしき濃い緑の山々を、目が追う。
150年前ここ一帯が、この緑の原生林だったのだろう。
目をつぶって、想像してみる。
次の瞬間セピア色の原生林が広がり、「開拓」という二文字が心に浮かぶ。
この「開拓」の二文字は、今まで認識されていた単語の意味あいとは、全く違う。

はやる想いを乗せたその飛行機は、雲を貫き、遂に北の大地に足を延ばした。
機窓から、千歳空港の滑走路を見る。
そこにはアスファルトのちょっとしたヒビの隙間から、所せまげに草ぼうぼうと風になびく雑草の姿があった。
「植物の力強さが、違う!」
これが、あこがれの北海道の第一印象だった。

6月末、初夏の北海道。
やはり内地とは、全く違う空気が感じられた。

その一か月前、アメリカのサンフランシスコに行ってきたが、どちらかというと日本である内地よりも、サンフランシスコに近いものを感じる。
島というよりも、大陸のようだ。なぜか「母なる大地」を、感じさせる。
世界地図を逆さまに見てみると、内地よりも北海道が大陸寄りだからだろうか。

亜寒帯に属する北海道の札幌は、北京やモスクワと同じ気候区分らしい。
モスクワと、同じ気候区分の北海道の札幌。
ここは四季がほぼ均等にある内地に比べ、一年の半分が「冬」だという。

福岡から引っ越して、3年目を迎える同僚が言った。
「長い冬に耐えること。そしてその長い冬を2度越えて、春を迎えることができた時、やっとこの北海道の地が自分を受け入れてくれたようだ。」と。
この北海道の冬の厳しさは、生活した人でなければ分からない。

より大陸寄りの地形と、大陸的気候区分、などなど。
これはどうも、日本国という枠の中だけで「北海道」を見てはいけないようだ。きっと内地とは違う、独特な個性を持つ土地に違いない。

「わたしたちは、北海道を、日本の北のはずれと考えがちですが、北東アジアという広い視野でみると、ちがった姿がみえてきます。」

北海道博物館を紹介する本に、こう書いてあった。
そしてあの時、博物館に入ってすぐの所にあった地図は、私を大変驚かせた。

「南には本州・四国・九州・沖縄とつながり、北にはサハリン(樺太)が長く伸び、その先にはユーラシア大陸が広がっています。東に千島列島をたどると、その先はカムチャッカ半島です。北海道はこれらをつなぐ位置にあり、遠い昔から、多くの生き物や人、物が行き交う交差点となってきました。」

地図というのは、北が上で南が下であることが、無意識の奥深くからくる絶対的な固定概念となっていた私にとって、この二つの地図の見方はとてもショックだった。
世界の中の日本、その日本という国の枠の中にある、北海道の「本当の価値」とは。


そう、固定的な観点の中では、新しい出会いはできない。
今まで学校教育などで一方的に与えられ、作られてきた観点の枠の中では、真実は見えてこない。
押し付けられた暗記教育の中では、動きそのものである、無限なる可能性の「本当の価値」を、知ることはできないのだ。
まずは生きて呼吸する「好奇心」のもと、あらゆることに「主体的」に出会い、疑問を持って積極的にその疑問と出会って解いていく。
そんな「出会いの繰り返し」によって、この地球上の人類歴史の真実なる姿が、現れてくるのかもしれない。
  
今回、遂に渡道(*)が許された、初めての北海道。
この北海道を通して、どんな出会いが待っているのだろう。
逸る心を押さえつつ、まずは札幌市内へと向かった。
                  (*) 渡道:北海道に渡ること


     時計台と札幌農学校(北海道大学)


初夏の日差しは強く、札幌の地を愛す。
札幌(サッポロ)の語源はアイヌ語で、「乾いた大地」という意味らしい。
札駅(さつえき:札幌駅)で降りて、時計台に向かう。

北海道観光のメインといえるこの場所は、北海道大学の前身である旧札幌農学校の演武場だった。


「明治4年(1871年)アメリカ農務省長官ケプロンが開拓使顧問として来日し、北海道の産業、生活諸分野の振興策の提言と指導を行い(略)、北海道開拓の推進役となる人物を養成する農学校設置の必要性を強く説き、これにより明治9年札幌農学校が開校した。」


開拓使次官(のち長官)の黒田清隆は、ケプロンやクラーク(札幌農学校、教頭)など、お雇い外国人(指導者)を雇用した。
黒田は札幌農学校の開業式の式辞で「農学校を設け農学の面目を一新したい。」と、当時慣習によってマンネリ化された農業を、学問によって改革し、北海道はもちろん全国に普及していくことを掲げた。


一方、クラークの式辞は「数百年にわたる身分差別と陋習(ろうしゅう)を脱したことはこれから教育を受ける学生の胸に大志を呼び覚ますこととなるに違いない。」とキリスト教の概念から、江戸時代の士農工商という身分差別や、当時の陋習(ろうしゅう)を脱したとした。
特にクラークの教育方針は、「前身である札幌学校の極めて細かな規則を全て廃止し、規則に縛られて行うのではなく正しい自己の判断よる[Be gentleman]という鉄則一語に尽きる。」とし、一期生全員に「禁酒禁煙の誓い」に署名させ「金銭を賤(いや)しみ労働を蔑視する日本人の風習を改め、真正な労働により対価を得ることの正当性を教えるため、生徒の農業実習には労働報酬を支給し」、それまでの日本の陋習(ろうしゅう)を脱させようとした。

寄宿舎生活では食事は洋食中心で、ゆったりしたスケジュールの中、文具などは一切支給され、毎週20銭の小遣いが与えられるなど、欧米留学生並みだった。
また生徒による自主組織「開識社」が設立され、定期的な英語・日本語の演説や討論なども行われた。
何よりも、クラークが帰国直前に起草提示した「イエスを信じる者の誓約」には、周囲の雰囲気に逆らえず「一期生全員が署名」したという。
クラークは演武場と化学講堂の建築構想を提言し、わずか8か月間の滞在の末、「青年らよ‥汝ら大望を抱け、決して小成に案ずるなかれ」と言って去っていった。あの名言「ボーイズビーアンビシャス」である。

私はこの北海道札幌の象徴である「時計台」で、韓国ソウルの「培材学堂」という、韓国初の近代学校教育機関を感じざるを得なかった。

時代の差や、各国の表現の違いはあったとしても、西洋列強であるアメリカはアジアに対し、近代化と共に、無意識レベルでキリスト教という「教育」を布教していた。

「札幌農学校は日本で初めて卒業生に学士号(農学士)を授与した教育機関である。学士授与機関としては旧東京大学より約1年早く設立されたため、北海道大学では札幌農学校を日本初の学士の学位を授与する近代的大学として位置づけている。」

日本はもちろん韓国でも、近代の「教育」の出発点がここにあった。

この「教育」を受けた優秀な人材は、日本では新渡戸稲造や内村鑑三など、韓国では初代大統領である李承晩などが、その後それぞれの「国家」形成に粉骨砕身(ふんこつさいしん)した。

ここで私は、大きな憤りを感じた。

ほんの8ヶ月しか日本に滞在しなかった、クラーク博士と「少年よ、大志を抱け(ボーイズビーアンビシャス)」という名言は、幼い時から「教育」などによって、アメリカに対する憧れと共に、北海道の象徴として強く印象に残っているが・・

クラークの教育理念の下(であったとしても)

名著「武士道」を英文で書き上げ、各国語に訳され世界でベストセラーとなり(ルーズベルト大統領らに、大きな感銘を与えたという・・)

1900年の世界37か国が参加するパリ万国博覧会で、審査委員を務め・・

戦前、台湾総督府の民政長官として台湾農業振興に尽力し、今でも台湾の人々から称えられ・・

1920年には国際連盟事務次長に選ばれ、国際連盟の規約に「人種差別撤廃提案」をして過半数の支持を集めた・・(結局、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により、否決されてしまったが)

世界が誇る「新渡戸稲造」という人物を、私はなぜ少し前まで「5千円札の人」程度にしか、知らなかったのだろう。

これはまさしく、敗戦によって70年間、規定され続けた自虐史観のもと・・
見えない主権によって作られてきた「国家」の一員としての、歪んだ「民族のアイデンティティー」なのではないだろうか。

北海道の地で、世界に出会い

北海道の地から出発して、世界に日本を発信した

現在、北海道大学の奥で静かにたたずむ「新渡戸稲造」の銅像に

私は「北海道の涙」を感じた。


      北海道神宮と開拓神社


7月1日、早朝の札幌は清々しい。

その日はまず、札幌の同僚たちと一緒に、北海道神宮へお参りにいった。

「神宮と神社の違いは、分かりますか?」引率してくれた、物知りの同僚が聞いた。「神宮」は皇室と深いつながりがあるか、もしくは天皇をお祀りする神社をいい、「神社」は一般的に神様を祀るところだという。

去年の秋、韓国ソウルにも以前、明治天皇を祀る「朝鮮神宮」があったという事実を知って、大変驚いたことを思い出した。

また今回調べる中で、同様に台湾の台北には「台湾神宮」が、中国の関東州旅順市には「関東神宮」があったことを知る。

「北海道の開拓・経営を行うため、明治2年(1869年)開拓使が設置され(略)、開拓使の長官以下の北海道への赴任に先立ち、明治天皇の勅使により、開拓の守護神として(略)三神を祀り、2年後「札幌神社」となって、昭和39年(1964年)明治天皇が御増祀となり北海道神宮と改称」

されたと、パンフレットに紹介されていた。

そう、札幌神社(のちの北海道神宮)は、開拓使 のためにつくられたのだ。

「開拓使」とは、ロシアに対する危機感から、開拓が近代国家の任務と考えた明治政府が置いた、開拓のための臨時の地方行政機関である。

「近世になってロシアの南下政策が激しくなり(略)樺太・北海道の防備と開拓が急務になり、幕府は多くの有能な人材を派遣して探検させ、実態の把握に努める一方、諸藩の藩兵を配備させ、開拓にも力を入れていき(略)、明治維新を迎え、新政府は「開拓使」を設けて北海道開拓に全力を尽くすことになる。」

この北海道神宮は、ロシア帝国の南下政策に対する守り(北門鎮護)として建てられ、実際大鳥居が北東を向いているらしい。

本当に北海道という地は、西洋列強、中でも「ロシア」の存在を無視できない。

と同時に、北海道の地は、すべて「開拓」という二文字に凝縮される。

それも時間的余裕を伴う「主体的な開拓」ではなく、時に迫られ、掻き立てられながら緊急を要した「受動的な開拓」だった。

その現状は対西洋列強のための国家戦略として、全国各地から優秀な人材たちが、緊急徴集させられても無理がないだろう。

そして集められたエリートたちは、急にできた「国家」という概念の下、突き動かされながら、お国(日本国+各藩のプライド)のため命を懸けて「開拓」した。

藩を超えざるを得ない、国家レベルの「緊急事態」だったのだ。
(ある意味、明治維新成功の一つの要因となったのかもしれない。)

そして、その「開拓」に心血を注いだ三十七柱の功労者(エリート)をお祀りしているのが、北海道神宮の境内にある「開拓神社」だった。

「開拓神社」は、北海道神宮の境内の円山公園寄りにある。
月の始めだからだろうか、普段よりも参拝客が多いようだ。

「開拓神社」の前を通りかかる道民らしき人達のほとんどが、足を止めて自然に手を合わせお参りしていた。

その入り口には、今回の訪問の数日前、前準備として見た映画「新しい風」の主人公で、十勝開拓の祖と言われている「依田勉三」の名前があった。

依田勉三は「伊豆の豪農の家に生まれ、上京して宣教師の英語塾で学び、慶應義塾に進んで福沢諭吉の影響や、北海道開拓について書いた「ケプロン報文」を読んで夢を抱き「晩成社」を結成して、開墾に挑んだ。」

まさしく、明治初期の「エリート」が、自ら開拓農民になった。

体に切り込む熊笹が生い茂る、巨木だらけの原始林の開墾。

野火(のび)、厳寒、旱ばつ、洪水、いなごの大群の襲来など、自然の脅威。

さらに故郷(静岡)で培った農法が通用しない、狂気の原野。

想像を絶する、壮絶なる戦いの連続の日々。

このすべての事実を通して、当時の「開拓」とは、どういうものか。

そして「生きる」ということが、どういうものなのか。

私たちが、今この時代に、こうして「生きている」ということは、いったいどういうことなのか。

深く人生のすべてを、猛省(もうせい)させざるを得なかった。


そう、この北海道の地には、そんな「開拓の魂」が、今でも「意志」として沁みこみ、奥深く脈々と流れている。

そしてその「意志」は、私たちを常に温かく包んでくれている。

いったい全世界に、これほどまでも、高貴で荘厳なる土地があるのだろうか。

しかし、この北海道の「意志」を、どれぐらいの人が知っているだろうか。

この地の叫びを受け止めることができる「魂」を持った人は、いったいどこにいるのだろうか。

この北海道の地の尊厳の回復は、いったい。

            (写真右上 依田勉三)

この時からすでに、北海道に対するイメージは大きく変わっていた。
それは、今まで頭で知っていた北海道とは、明らかに違っていたからだ。
美しく雄大なる自然の北海道が、人間の侵入を許さない厳格で強靭な自然の北海道となり・・
美味しくて豊富な食文化の北海道は、開拓民たちの血と汗と涙をまさに「いただいている」ことであり、それが私たちの骨肉化される瞬間としての、感動の出会いである食文化の北海道となったのだ。

ではあの時代、なぜこのように厳しい開拓・開墾が、急激にこの北海道に課せられることになったのだろうか。
当時の時代的背景のもと、「近代国家の成立」と「世界的な外交関係の開始」という荒波に飲み込まれざるを得なかった「近代」という時代を、私は深く考えることになった。

また特にこの一年間、常に疑問として存在していたのが「国」「国家」という概念である。
確かに「国」「国家」という概念は、私たちのアイデンティティー形成に必要であることは間違いない。
しかし今それらの概念によって、民族闘争を含む国家闘争が絶えない時代になってしまった。
最近、国民投票でEUを離脱したイギリスや、2016年度アメリカ大統領選におけるドナルド・トランプ氏の発言などを通して、「国家」とは何かを考えざるを得ない世界風潮にある。

現在私は大韓民国に居住して、通算20年になる日本人である。
若い頃、日本の建前文化にうんざりし、脱日本計画としてイギリス渡航を考えていた時、あるきっかけで韓国人の夫と出会い結婚した。結婚する前、夫の家族からの反対を通して、初めてしっかりと韓国の歴史を図書館で学ぶことになる。
その時出会った反日思想の本によって、私の渡韓目的が明確になったことを今でも覚えている。
「自分を通して韓国の人たちの反日感情を少しでも緩和し、解消させることができたら。」
こうして私は、日本という国家を背負いつつ、近くて遠い国といわれる大韓民国で生活しながら、「国家」という概念を常に意識しつつ生活してきた。


では、いったい「国家」とは何だろう。

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