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「学校では教えてくれない世界史~日本、ヨーロッパと出会う~」②

シン・サンモク著

今日は雨で、久しぶりに一日中家にいました。たくさんの雨の中、大阪では明日からG20が行われますね。

ここ数日間、頭の中は大航海時代から戦前ぐらいまでを、行ったり来たりしています。ちなみに、大航海時代を調べたところ・・・

大航海時代(だいこうかいじだい)とは、ヨーロッパ人がアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海を行い、"発見"した土地で略奪や搾取の限りを尽くした時代。15世紀半ばから17世紀半ばまで続き、主にポルトガルとスペインにより行われた。(Wikipedia大航海時代から)

私は学生時代しっかり勉強しなかったので、大航海時代のイメージが「新大陸発見」という希望的イメージでしたが・・・、実は「発見した土地で、略奪や搾取の限りを尽くした時代」だったんですねぇ。

まず「以後よ散々」で覚えた1543年の鉄砲の伝来について、シン・サンモク著「学校で教えてくれない世界史」では、こういう表現もありました。

ヨーロッパ勢力の進出に対する東アジア各地域の対応を概念化しながら「伝来」と「伝播」を区分している場合がある。「伝来」を外部のモノが導入され現地に根を下ろして内在化される現象で、「伝播」は外部のモノが導入され大きく広がる現象として区分している。(略)先に伝播されたのは、西南アジア・東南アジア・中国だが、能動的対応を通して「伝播」が短期間で「伝来」に転換させた所は、唯一日本であるということだ。(P169) この鉄砲の国産化と大量生産によって、今までの戦(いくさ)の様相と局面が完全に変わるという画期的な変化が、日本にあったことは否定できない・・(P170)

この鉄砲をつくる技術を身につけたということが、その後の「鎖国」に繋がるようです。

一方、世界はスペイン・ポルトガル(のカトリック)から、オランダ・イギリス(のプロテスタント)へ勢力が移動していきます。それは、なぜか・・・

スペインはアメリカ新大陸に膨大な植民帝国を建設し、未曽有の富を獲得したが、獲得した富に比例した富国強兵は成されなかった。市民勢力が成長できない状態で世俗的権力と宗教的権威をすべて貪る強硬な「王権」によって、スペインは身動きできなくなった。新大陸の植民地はスペインの王室の所有物だった。(略)「王室による、王室のための、王室の」植民地経営は、スペインを一時的に富強にしたが、究極的に国全体が内部から崩壊する結果を招来した。(P272)

宗教までも手段にした、西洋を始め各国々の王室の権力者たちは、こんなもんだったりしますが。(☜これが日本人的には、なかなか認識され難い部分だったりしますけどね・・・)

このようにスペインでは、工産品など製造業が発達しなかったので・・

新大陸で創出された富はスペインではなく、競争国であるイギリスやオランダの産業を成長させる結果になった。(P273)

1588年英仏海峡などで起きた「アルマダの海戦」は、スペイン無敵艦隊のイングランド侵攻でしたが、その時から徐々にスペインの弱体化が始まったようです。

同時にヨーロッパでは、1517年ルターの宗教改革から始まり「カトリック」と「プロテスタント」の闘いは、のち1618~1648年のヨーロッパ各国が介入する「三十年戦争」まで続きます。(例えばドイツは、人口が1600万人から1000万人になったそうです。下記の絵、参考。)

日本では1596年にサン=フェリペ号事件が起きて、秀吉が本格的にキリスト教を弾圧し始めたといいます。実際、その前までは・・・

1587年秀吉が発したバテレン追放令はキリスト教の布教の禁止のみであり、南蛮貿易の実利を重視した秀吉の政策上からもあくまで限定的なものであった。これにより“黙認”という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができた。(Wikipediaサン=フェリペ号事件から)

しかし、この事件でスペインの内幕が分かります。(昨日の記事から引用)

スペインが広大な植民帝国を建てることができたのは、「まず宣教師たちを送り、キリスト教(カトリック)を養成して、その後軍隊を送ってキリスト教徒と合流させて、挟み撃ちにさせるから可能だった」と供述したことが秀吉を刺激し、強制的なキリスト教弾圧に繋がったと言われている。(P246)

このような世界情勢の動向を情報収集していた秀吉は、信長のプランでもあり、明(中国)がスペインに侵攻され占領される前に、朝鮮出兵を通して大陸を目標とし、1592年「文禄の役」と1597年「慶長の役」が行われます。

朝鮮朝廷は北方の女真族討伐に、輝かしい功労を立てた申砬(武士の名前)に倭敵の撃退に期待をかけた。(略)しかし、申砬8000人の兵士は日本軍(秀吉軍)に凄惨に敗北し(略)、王と重臣たちはなんとか城を抜け出して避身しなければならなかった。憤怒した民衆は城に火を放ち、民衆を見捨てた支配層を恨んだ。(P172) 1000年前の中国の経典を一文字も間違えずにすべて覚える朝鮮の支配層たちは(略)、日本に対して同じ時代に何が起きていたのか、一切知ろうともしなかった。これ以上の戦闘の敗因が、他にあるだろうか。(P181 「第11章 鉄砲が運命を変えた二つの戦闘」から)

半島に侵攻された立場としても、著者は客観的に当時の朝鮮情勢を語ってますね。また・・・

日本の権力者として、外交政策の観点から境域の利益を取得たとしても、安保政策の観点からも(略)国際情勢の中からも把握しなければならないという解釈は、個別国行為の動因を指導者のキャラクターや誘発的事件で因果関係を見つけようとするのではなく、国際情勢の変動という構造的要因から把握し吟味してみてもいいだろう。(P253)

当時の日本の立場に立ち、秀吉の立場に立って安保政策の観点から、国際情勢から見た「キリスト教弾圧」であり、「朝鮮出兵」だったのではないかと、語っています。

その後、家康の時代になって、1600年にオランダ(プロテスタント)の商船リーフデ号が現在の大分県に漂着し、「青い目の侍」であるウィリアム・アダムス(三浦按針)と対話する中で、既存の宣教師との違いがあることを知り、家康は三浦を近くに置いてヨーロッパ情勢を見抜いていた(P264)と、語っています。

これがのち、「鎖国」時における長崎の出島で、オランダとの貿易が可能にする始まりでした。

その後、島原の乱(1637年)などによって、キリスト教布教の体制に脅威の属性が付与されながら、幕府の鎖国政策が強固になった・・(P269)

1633年の第1次鎖国令から第5次鎖国令に至るまで、いろいろな事件がある中、1639年徳川家光の時に「鎖国政策」が完成します。

鎖国という言葉は江戸時代には使用されてなかった。鎖国政策が歴史の用語として登場したのは明治時代以降、主に幕府の境域独占に対する批判的な意味を含んだ否定的な意味として作用されている。しかし「鎖国政策」は単純な孤立主義または、理念的外征の排他主義ではなく、何よりも有義な点は「鎖」で結縛する対象は「藩」であって「幕府」ではないという点だ。(略)幕府の鎖国政策は「閉門政策」ではなく、幕府が人・文物・情報の対外交流掌握するための「窓口独占政策」という性格を把握してこそ、その意味を的確に吟味できる。幕府は統治安全化過程において歴史的経緯と戦略的観点を考慮して4か所に通交窓口を開けていた。薩摩藩と琉球、松前藩と蝦夷地、対馬藩と朝鮮との通交を許可した半面、一番重要なヨーロッパ・中国との交流は幕府の直轄領である長崎に限定した。従って鎖国政策ではなく「4か所窓口通商政策」と呼ぶ必要があるという学者もいる。(P375)

面白いですね、藩が「鎖国」であって、幕府が鎖国ではないこと。

人・文物・情報を一点に集中させ、取り入れた「窓口独占政策」であり、それも「4か所窓口通商政策」であること。

ヨーロッパの三十年戦争を始め世界は大混乱の中、日本はガッツリ武装中立して、内需で全てを回すことができた超大国「パクス・徳川ーナ」といわれる、平和な時代が260年続きます。

例えば江戸時代後半には、江戸は人口100万人の都市だったそうです。ちなみに当時ロンドンが70万人、パリは50万人なので、人口世界一の都市でした。

また当時、江戸の「識字率」も高く、イギリスの社会学者ドーアによると「1870年頃には、各年齢層の男子の40~50%、女子の15%が日本語の読み書き算数を一応こなし、自国の歴史・地理を多少わきまえていた。」と著書で語っています。ちなみにヨーロッパでは、識字率ロンドン30%、パリ10%だったとそうです。(ジオヒス・エッセイ東京から)

「鎖国」ではなく「4か所窓口通商政策」によって、日本は外敵から守られながら、しっかりと国力を鍛えていったといえるでしょう。

この本を通して、今まで持っていた「鎖国」のイメージが、まるっきり変わってしまいました!!

長い間、お付き合いありがとうございました!!

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