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場面緘黙とアイドル

アイドルには詳しくないのだけれど、先日公開されたミスiD2021 エントリーに3名(4名?)もの方の「場面緘黙」の記述があり、おお!っとなった。ほかにも、以前から場面緘黙なのではと噂されるアイドルもいたりして、Twitterで見て気にかけていた。

というのも、私はアイドルという存在と場面緘黙は親和性があるはずと考えていたからだ。

一般的には、アイドルのように人前に出る仕事をしているにも関わらず、場面緘黙というのはありえないと思われるだろう。場面緘黙=人前でうまく話せないのに、自ら自分に注目を浴びさせる仕事であるアイドルを目指すだろうかと。

でもたぶん、自ら自分に注目を浴びさせる仕事だからこそ、一部の場面緘黙の人はときにアイドルという存在に強く憧れる。そんな部分があるのではないだろうか。

その憧れは、学校や職場で話せないことで、まるで存在していないかのように扱われ続けてしまう傾向に端を欲している。「私という存在を見てほしい、私という存在に気付いてほしい」そんな飢餓感が人の何倍も眠っていて、でもその気持ちは人間としてとても自然な気持ちだと思う。

承認欲求や自己顕示欲を持つことは悪いことじゃない。人として生きていれば当たり前のことだ。だが場面緘黙であることは、その欲求のかけらさえ極端に満たされない/満たせない 状態になりうる。

話せない・話さないことで、むしろ悪目立ちして、嫌悪的な注目を浴びる経験の方が多かったりもする。対人や話すことを避けたりして、自己肯定感は下がり、自分を表現できず、承認欲求は加速しがちだ(もちろん場面緘黙の人皆がそうではないだろうが)。だとしたら、例えばアイドルのように好意的な注目を一身に集めたくもなるんじゃないだろうか。

教室で、私を凍てつくほど射すくませていたおよそ60の目。その視線に、私は私への否定を感じ取っていた。アイドルは、その何千倍もの人の好意的な視線を、私という存在の肯定として浴びることができるように思える。

また、俳優、ミュージシャン、芸人などで、場面緘黙だった人たち、あるいは普段は話せないのに舞台の上では別人のように話せるという人たちもいる。この場合は、作品として完成させたものを表現・発表する、台本があり動きが決まっている、練習や見通しが可能である、舞台と普段の自分とは切り離されているなどの要因が考えられる。私が、雑談はできないが、授業での教科書の朗読ならできたのに近い感覚なのかもしれない。

そして私が、アイドルに、ほかの仕事にない場面緘黙への親和性の高さをとくに感じている部分がある。それは人格の部分さえ含めてファンから求められる/消費される という点だ。

アイドルは俳優やミュージシャンなどとはちがい、芸+容姿+内面のワンセットでジャッジされる雰囲気がある。以下の一文はWikipediaによるアイドルの定義から抜粋した。

『成長過程をファンと共有し、存在そのものの魅力で活躍する人物』

人前に出る仕事のなかで、どのジャンルよりも、性格や人格も含めてその人そのものを見られているように思う。とはいえ根拠なく容姿の好みだけで誰かの推しに選ばれたり選ばれなかったりもするだろうし、ルッキズムやジェンダーの観点からなど、さまざま考えるほど過酷な世界だけれど、そこで抜きん出ることは一般にはあり得ない桁違いの承認を得ることでもあるのだろう。

自分の内面を出すことが苦手ゆえ、アイドルの私という人格を得ることで、求められる規範や要請に則って自己表現が可能になるかもしれないし、普段の自分とは別の人格(ペルソナ)を持つことで役割演技的に生き生きする、話せるということもあり得る。とくにアイドルは、性格や人格といった内面の部分までを含め、大衆に求められるままにふるまえることが、そのまま才能となるのではないだろうか。場面緘黙の私にはどこか、外から求められる自分なら出せるというところがあって、それは、もともとの素の自分を出すよりも楽にできることだったりする。求められるままにふるまうことは、役割として消費される危険と隣り合わせでもあるが、私の場合は役割演技はあくまで本来の自分として存在するための突破口であった。

個人的感覚だが、自分の内面をそのまま出すことはできないが、外側にある規範といった何らかのルール・枠・型を取り込み、それとセットにすることで、それまで全く出せなかった自分を急に外に出せたりする。自分を出す方法と方向性が定まってやっと出せるという感じで、むしろその枠を求めている節さえある(例えば、話せない私は店員としてなら自分でも驚くほど話せた)。だからこそ、拙著『かんもくの声』にも書いたけれど、場面緘黙であることは、その存在として媒介や器としてのポテンシャルが否応なく高くなってしまうと思われる。外側からの内面への取り込みと出力能力がものすごい。それゆえ、もともとアイドル=アイコン(偶像)としての潜在能力も高いのではないだろうか。

また、見られることで話せなくなるぶん、見られることに過敏であり、どうしたら注目を集めることができるかといった意識も高いはずだ。私は自意識なんてなかったらいいのにと思っているが、人前に出る場合には、自意識があればこそ、他者からどう見られているかが分かる。それは、セルフプロデュース的感覚を養う基盤にもなる。

かなしいけれど、話さないでいることは存在を無視されるようなことに近い。子どもの頃から緘黙で隠されてきた自分という存在そのものへの承認に飢え求めてきたからこそ、内面まで見てもらいたい/見てくれたという深い承認をつかみ取りたくなる。その貪欲さとか、悔しさとか、得られなかったものへの取り返したさみたいな強い動機と自己表現欲求を、場面緘黙の人はもともと手にしてもいる。

自分の存在価値が認められない世への反骨もあるだろうし、人間らしく生きているという当たり前の存在感を手に入れようとすることでもあると思う。そして、何らかの理由で内面を半分演技的にふるまいたい人(例えば、場面緘黙が発動しにくいよう自意識を薄れさせたい)、他者の視線を(良くも悪くも)意識せざるを得ない人、さらにどうしても伝えたいことを強く持っている人もいる。

生身の人間でいるよりアイコンでいる方が自分を出しやすく生きやすい、かつ伝えたいことが伝えられる。そんな場合もあるかもしれない。そしてその過程において、キャラや役割だけの空疎な「私」に飲みこまれず、その人らしさを抑圧せず表現できるようになっていったらいい。

そんな感じで、私は一部の場面緘黙の人にはアイドル(あるいは注目を浴びる仕事)の適性・才能があると勝手に思っている。

少し前に、欅坂46のメンバーが場面緘黙では?と一部で噂されていたこともある。Twitterで話題になっていた動画を見たところ、返事がないために「返事が社会生活の基本だろ」と叱咤されるシーンがあった。返事のないメンバーに対して、多くの人から「常識がない」「甘えている」「人としてどうなのか」などのコメントもあり、とてもかなしくなってしまった。「アイドルなのに話さなすぎ」というコメントも見かけた気がする。その前には AKB48のメンバーが、自分は場面緘黙だったかもというような内容を、自身で話す動画配信もあった。実際のところ、彼女たちが場面緘黙かどうかは分からないけれど、歌って踊れるのに返事や挨拶ができない=非礼・非常識ではなく、場面緘黙やそのほかの症状で話せない場合もあるという認知や理解が、もっと広まってほしいと思わざるをえなかった。もし場面緘黙であれば、話せるときと話せないときがある(話せる/話せない の条件や状況はひとりひとりちがってくる)し、大人になったらすべての場面緘黙の人が完全に治るわけではない。

ミスiDを始め、今はいろんなアイドルがいる。たとえ型破りでも「話さ(せ)ないアイドル」がいてもよいだろうし、いつか場面緘黙をオープンにしたアイドルが出てくるのではないか。それは場面緘黙の人たちにとってはすごくよいことかもと思っていたけれど、ミスiD2021 のエントリーには、そんな方々がすでに3〜4名もいらっしゃった(!)

中には場面緘黙について伝えたくてエントリーされた方もいる。そんな雨月さんの文章は胸に迫るものがあり、とても共感した。場面緘黙の人のなかには、場面緘黙を知ってもらいたい、伝えたい、啓発したいという強い気持ちを持つ人がたくさんいるし、そのことが自己表現と地続きであったりもする(私もそのひとりだ)。

これからどんどん内向性の高いアイドルが増えるかもしれないし、すでにいろんなアイドルがいるようで昔とは全くちがうなあと感じる。
以下の、あのさんのツイートにも共感。
アイドルらしさ<自分らしさ、みたいな潮流を感じる。

余談だが、2017年に『世界仰天ニュース』の取材を受け放送されたとき、相当数のSMAPファン(司会が中居くん)が場面緘黙を知ったとツイートしてて、私のアカウントをフォローしてくれることまであった。中居くんファン×場面緘黙という想像の斜め上を行く取り合わせで周知される結果となったが、場面緘黙を全く知らなかった人たちに知ってもらうことができた。「肉まんバレンタイン」のような、現実の分断をちょいとまたぐような偶発的な啓発現象に興奮した、笑。ファンの熱意の深さとアイドルの影響力はとてつもないのだとリアルに実感する出来事だった。。。

以上、私の体験と独断と偏見によるアイドル×場面緘黙話でした。

▼場面緘黙について詳しい記事はこちら

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