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【第30章・勅額火事】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第三十章  勅額火事

 御前様・近衛熙子の言う通り、治にいて乱を忘れず、の心構えは大事だが、徳川の覇権が確立してほぼ百年。地方の大名が反乱を起こし、江戸に攻め寄せるという状況はなかなか考えにくい。江戸の町にとって具体的な脅威と言えば、まずは火事であった。

「ご苦労様でした。水戸の御老公のご様子について、何か分かりましたか」
「夏風邪だそうです。ただ、ご病状は昨年より軽く、すでにご本復。今は日々歴史書の編纂に精を出しておられる、とのことです」
「そうですか。それは重畳」

 季節は巡る。元禄十一年(一六九八年)九月六日、吉之助は、朝一番で水戸藩上屋敷に出向いた。表向きは水戸藩主に宛てた主君・松平綱豊の残暑見舞いを届けるためだが、真の目的は、体調を崩していると伝わる先代・徳川光圀の様子を探ることにあった。

 光圀は綱豊の最大の後援者であるが、すでに齢七十。その健康状態は、甲府藩の面々にとって、主の将来を左右する重大事なのだ。

 ちなみに、黄門とは、中納言の中国における呼称である。光圀はすでに隠居しているので前中納言。それに対して、綱豊は現役の権中納言。従って、綱豊こそ甲府黄門と呼ばれてもよさそうなものだが、黄門と言えば、やはり水戸なのである。

 吉之助と間部が話していると、竜之進が戻ってきた。同時に、昼九つ(ほぼ正午)を告げる増上寺の鐘が、ゴ~ン、ゴ~ンと鳴り始める。
「お疲れさん」
「ええ。ほんと、疲れましたよ。内藤家のご隠居に延々と出羽守様の悪口を聞かされ・・・」

 竜之進の言葉が終わらぬ内に、増上寺の鐘に被る形で、カンカンという短く鋭い金属音が聞こえてきた。
「うん? 火事ですか。距離はありそうだけど」

 ところが、そうこうしている内に金属音がいくつも重なり、さらに増え続けた。
「結構近い音もあるぞ。これは只事ではない」
「しまった! 殿はお城だ。こんな時にお側を離れるとは」
「間部様、それをここで悔いても始まりません。とにかく、火事の状況を確かめましょう」と、吉竜両名が同時に立ち上がる。

 そこに廊下をドスドスと踏み鳴らしながら、江戸家老の安藤美作がやって来た。
「間部! いるか」
「はっ。すぐに状況を確認し・・・」
「それはいい。すでに番方から十名ほど市中に放った。それより、御成書院に行くぞ。御前様がお呼びだ。狩野、島田、お前たちも来い!」

 安藤美作は、日頃は何事も間部任せの昼行燈だが、彼の出身母体である安藤一族は、有能な武将や行政官を多数輩出してきた譜代の名門だ。いざとなれば頼りになる。

 吉之助らが御成書院に着くと、すでに綱豊の正室・近衛熙子が上段之間の中央にいた。彼女の前には数枚の地図が広げられ、番頭の鳴海帯刀が何やら説明している。

「皆々、大儀。こちらへ。間部。今、殿のお側には誰が?」と熙子。
「はっ、本日は中老の・・・」と間部が言いかけたとき、藩士が一人駆け込んできた。彼は書院に面する廊下に片膝を付き叫んだ。
「ご注進! 火元は、京橋近辺でございます」

「どこ?」
「この辺りです」と、鳴海が地図上を指す。

「なるほど。よい。直答を許す。それで、鎮火の目途は?」
「不明でございます。ただ、火勢、極めて強く、北に向かって燃え広がっております」
「北、とな。こちらか」と、熙子が扇の尻で地図上をなぞる。どことなく楽しそうだ。

「そうなると、神田の辺りが大きな被害を受けそうですな」と、安藤も地図を覗き込む。
「神田川で止まってくれるかしら?」
「そうあって欲しいですが、楽観は出来ません」

「分かりました。美作殿、殿がお帰りになるまで、屋敷の指揮を頼みます。全藩士を招集し、警戒を。間部、そなたはすぐにお城へ行きなさい。殿をお助けするのです」
「かしこまりました」

「狩野吉之助、島田竜之進」
「はっ」
 熙子にいきなり名を呼ばれた二人が、驚いて姿勢を正す。

「二人は殿直属の番士でしたね。ならば、とりあえず神田川の線まで、狩野は、こちら、お城の西側を、島田は東側を見てきなさい。火の状況だけでなく、殿が出陣する場合に備え、進出経路や陣所に相応しい場所など、必要なことを調べてくるのです」
「かしこまりました」と両名。
「よろしい。そして、鳴海は番方の長として人員と装備の・・・」

 すると、間部がわずかに膝を前に進めた。顔が青い。
「ご、御前様。お言葉を遮る無礼をお許し下さい」
「何です?」
「恐れながら、御前様には、殿がご出陣されるとお考えですか」
「そうです」
「重々ご承知のことと存じますが、火消しは月番老中指揮の下、担当の大名が当たります。勝手な行動は取れません。我らは、まず、この浜屋敷の周囲を・・・」

 時代劇などでよく見る町火消はまだない。この時代、市中の消火活動は、六万石以下の大名で編成される大名火消が担っていた。

「分かっています。されど、明暦の大火のときも、最初は半時(一時間)もあれば鎮火すると思われていて、結局、丸二日間燃え続けたというではありませんか。此度とてどうなるか。最悪に備えるべきです。空騒ぎに終われば、それはそれで結構」

 そこで熙子は、鳳眼を輝かせて一座を見回した。皆、思わず姿勢を正す。
「よいか。それぞれ、殿の御ため、使命を果たすのです。さあ、行きなさい」
「ははっ」

 熙子に励まされて書院を出ると、横で竜之進が呟いた。
「見事なご采配だ。御前様には驚かされるばかりですよ」
「まったくだ」

 すると、間部が補足説明してくれた。
「御前様は、日頃から和漢の史書や軍記物を愛読しておられます。漢の高祖(劉邦)を助けた留侯(張良)がお好きなようです」

 張良、字は子房。帷幕にあって策を巡らし、勝ちを千里の外に決したという天才軍師。彼は、ほとんど流民集団とも言える劉邦軍の中で、唯一、筋目正しい貴族の出であった。熙子が好むのももっともだ。

「御前様の軍師気取りはともかく、あのご指示は正しい。一同、気を引き締めてかかれ」と、安藤が締めた。  

 吉之助と竜之進が偵察を終え、浜屋敷の御成書院に戻ったのは、一時(二時間)後のことであった。すでに綱豊も城から戻り、熙子と並んで上段にいる。

「お照、よくやってくれた。そなたの手配りのお陰ですぐに出陣できるぞ」
「当然のことです。それで、殿のお役目は?」

「うむ。寛永寺の守護だ。先日落成したばかりの諸堂はもちろん、帝から賜った勅額を守らねばならぬ。しかし、思ったより火の勢いが強く、大名火消だけでは手が足りぬ。そこで、徳川の聖地たる寛永寺は、御三家を含む我ら一門衆でお守りすることになったのだ」

「その指揮官に殿が?」

 興奮を隠し切れない熙子に対し、間部が城内での協議の流れを説明した。
「はい。当初、御三家筆頭の尾張様を頭にという話でしたが、紀州様が難色を。それならと紀州様を立てようとしたところ、当然、尾張様が納得しません。それで、水戸様と会津様が間に立ち、公方様の甥御である殿を指揮官に仰ぐことで決着しました」

「素晴らしい。やはり、殿には天運が・・・」
「お照、すでに神田一帯は火の海だ。多くの者が家を焼かれ、死者も出ている。喜んでいる場合ではないぞ」
「これは、わたくしとしたことが、大変失礼いたしました」と殊勝に述べる熙子。しかし、彼女の鳳眼はますます光を増し、一瞬だが、不敵な笑みをも浮かべたように見えた。

次章に続く


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