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【物語の現場010】融女謝師恩碑を探して、池上本門寺へ(写真)

 写真は、「融女寛好」の第三十五章(最終章)で紹介した融女謝師恩碑です(東京都大田区、2021.11.15撮影)。

 この石碑があるのは池上本門寺。東急池上線の池上駅から徒歩10分。山門に至る石段が結構きつい。
 その石段を上がり切った右奥に、真っ白い日蓮上人の像が立っています。そして、その周囲にいくつかの古い石碑が集められています。その中のひとつ。

 姿のよい一枚岩です。

 建立時は、作中に書いた通り、融川の墓の傍にあったのだと思いますが、随分と引き離されてしまいました。それが悲しい。

 上部に彫られた「融女謝師恩碑」の文字(赤枠で拡大表示)は、はっきり読める。一方、碑の本文は、崩し字が多いだけでなく、全体的にかなり薄くなっており、ほとんど解読不能。

 しかし、本文については文献資料があるのです。

 江戸後期、朝岡興禎が著した「古画備考」に全文載録されています。私の手元には明治37年発行版の復刻版(思文閣、昭和45年)があります。これがとても有難い存在。物語を書くにあたっても、融女謝師恩碑と浜町狩野家に関する記述から多くのヒントを得ました。

 余談ですが、この膨大な画人伝をまとめた朝岡興禎は、あの伊川院(木挽町狩野家第八代当主)の次男です。

 彼は、「古画備考」の中で、浜町家が木挽町家の分家であったことを強調し、他の三家より一段低く扱っています。
 木挽町家は、一時、分家である浜町家の下風に立たされた歴史があるので、意趣返しだったのかもしれません。

 一方、興禎は、旗本・朝岡家の養子となり、木挽町家から出されています。彼の弟たちも他家の養子となりますが、中橋家(狩野宗家)と浜町家の当主に納まっているのです。そうなると、画壇における序列は・・・。
 逆に、小納戸役という幕府の役職にも就いていたことから考えて、絵師の世界には収まり切らない、非常に優秀な男だったと思われます。だとすれば却って・・・。
 朝岡興禎、彼もまた興味深い絵師の一人です。


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