【老子】「無の用」~「有」を活かす「無」の役割
老子の言葉は常人の意表を突いてくる。
『老子』第十一章では、「有」と「無」について、次のように語っている。
「有」と「無」という抽象的な概念を「車輪」「器」「家屋」という具体的な比喩を用いて説いている。
要するに、「車輪」「器」「家屋」など形のあるもの(物体そのもの)が機能を活かせるのは、形のないもの(空間)の効用があるからだ、ということである。
さらに詰めて言えば、「無」があってこそ「有」がある、ということだ。
さて、老子のこの概念は、しばしば「無用の用」という成語として使われているが、厳密に言えば、老子のものは「無の用」であって、「無用の用」ではない。
そもそも、『老子』の原文に「無用」という2字の熟語は使われていない。
成語として用いられる所謂「無用の用」は、荘子が説いたものだ。
老子の場合は、「無用」と「有用」を対比しているわけではなく、あくまで「無」と「有」の関係を説いている。
『老子』第四十章に、
と語っている。
つまり、逆に言えば、「無」(形のないもの)から「有」(形のあるもの)が生まれ、そこから天地自然のすべての物が生まれる、ということである。
また、第四十二章では、
と語っている。
第四十章と第四十二章を突き合わせて整理すると、「無」はすなわち「道」(すべての根源、タオ)であり、そこから「一」すなわち「有」が生じ、そこから「二」すなわち陰陽が生じ、そこから「三」が生じ、さらに「万物」が生じる、ということになる。
但し、『老子』の他の章(例えば、第一章)では、「道」イコール「無」ではなく、「道」は「無」よりさらに前のもっと根源的なものとしている。
いずれにしても、老子における「有」と「無」は、万物生成の議論における抽象的、形而上学的な概念である。
「車輪」「器」「家屋」の話も、「無」があってこそ「有」がある、つまり、「無」が「有」を生じる、という万物生成の議論の枠内の話である。
一方、荘子の「無用の用」は、「無用なものこそ有用である」「役に立たないものが実は役に立つ」と言うように、天寿を全うするための韜晦の処世術を説く上での比喩として使われている寓話である。
荘子の「無用の用」が老子の「無の用」を継承するものであることは確かであるが、両者が言わんとするところは同じではない。
ややこしくなってきたので、荘子の「無用の用」については、次回の投稿に回したい。
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