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【老子】「無の用」~「有」を活かす「無」の役割

老子の言葉は常人の意表を突いてくる。

『老子』第十一章では、「有」と「無」について、次のように語っている。 

三十のは一のこしきを共にす。其の無に当たりて、車の用有り。
つちねて以て器をつくる。其の無に当たりて、器の用有り。
戸牖こゆううがちて以て室を為る。其の無に当たりて、室の用有り。
故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。


車輪は、30本の輻(スポーク)が轂(ハブ)に集まって出来ている。その轂に何もない空間があるからこそ、車輪としての用を為している。
器は、粘土をこねて作る。その器に何もない空間があるからこそ、器としての用を為している。
家屋は、戸や窓をくりぬいて作る。その家屋に何もない空間があるからこそ、家屋としての用を為している。
だから、「有」(形のあるもの)が働きを発揮するのは、「無」(形のないもの)が役割を果たしているからだ。

車輪の図(『日本大百科全書』より)


「有」と「無」という抽象的な概念を「車輪」「器」「家屋」という具体的な比喩を用いて説いている。

要するに、「車輪」「器」「家屋」など形のあるもの(物体そのもの)が機能を活かせるのは、形のないもの(空間)の効用があるからだ、ということである。

さらに詰めて言えば、「無」があってこそ「有」がある、ということだ。


さて、老子のこの概念は、しばしば「無用の用」という成語として使われているが、厳密に言えば、老子のものは「無の用」であって、「無用の用」ではない。

そもそも、『老子』の原文に「無用」という2字の熟語は使われていない。

成語として用いられる所謂「無用の用」は、荘子が説いたものだ。

老子の場合は、「無用」と「有用」を対比しているわけではなく、あくまで「無」と「有」の関係を説いている。

『老子』第四十章に、

天下の物は有より生じ、有は無より生ず。
この世の万物は「有」から生じ、「有」は「無」から生じる。

と語っている。

つまり、逆に言えば、「無」(形のないもの)から「有」(形のあるもの)が生まれ、そこから天地自然のすべての物が生まれる、ということである。

また、第四十二章では、

道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。
「道」は「一」を生み出し、「一」は「二」を生み出し、「二」は「三」を生み出し、「三」は万物を生み出す。

と語っている。

第四十章と第四十二章を突き合わせて整理すると、「無」はすなわち「道」(すべての根源、タオ)であり、そこから「一」すなわち「有」が生じ、そこから「二」すなわち陰陽が生じ、そこから「三」が生じ、さらに「万物」が生じる、ということになる。

但し、『老子』の他の章(例えば、第一章)では、「道」イコール「無」ではなく、「道」は「無」よりさらに前のもっと根源的なものとしている。

いずれにしても、老子における「有」と「無」は、万物生成の議論における抽象的、形而上学的な概念である。

「車輪」「器」「家屋」の話も、「無」があってこそ「有」がある、つまり、「無」が「有」を生じる、という万物生成の議論の枠内の話である。

一方、荘子の「無用の用」は、「無用なものこそ有用である」「役に立たないものが実は役に立つ」と言うように、天寿を全うするための韜晦の処世術を説く上での比喩として使われている寓話である。

荘子の「無用の用」が老子の「無の用」を継承するものであることは確かであるが、両者が言わんとするところは同じではない。

ややこしくなってきたので、荘子の「無用の用」については、次回の投稿に回したい。


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