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【エッセイ】小説のポエム化についてⅡ

 以前、小説の散文がポエム化する現象について、ベストセラー小説二冊(宮下奈都『鋼と羊の森』、柳美里『JR上野駅公園口』)を引用しながら分析(という程のことでもない)したことがあります。

 ところが、コメントで、「ポエム化している小説を探してみたけど、意外とない」というご意見を頂きました。つまり、これ(ポエム化)はレアなケースではないのか、と。

 あるいは、その方の本棚には、現代日本の純文系ベストセラー小説は並んでいないのかなとも思いました。かく言う自分も、その手の本をずいぶん長い間手にしていなかったような気もします。

 そんなわけで、まあポエム化探しそのものが目的というのでもなく、現代日本で文章を書く者としてアレコレと現代日本の作品に当たってみることにしました。ところが、なかなかフィクションばかり連続して読む気もせず、そもそも本ばかり読んでいるわけにもいかず(ちょっと仕事が立て込み、Netflixのマイリストがどんどん嵩んでゆき)、ポエムのことなどすっかり忘れていたのですが、とうとう一冊の芥川賞受賞作品に巡り会うことができました(新古書店で)。なんだ、また女性かなどと言わないで下さいね。ポエム化の決定版のような作品なんです。

 オラオラ系の話だと勝手に思い込んでいたけれど、老いの孤独を描いた作品でした。「おら」というのは、東北弁の一人称ですね(それぐらいわかるか)。

 なんと、自分も老年の孤独をテーマにしたショートショートを書いたばかりでしたが、文芸誌の新人賞を受賞、更に芥川賞を受賞して(選考委員はほぼ絶賛)、ベストセラーになって映画化され(未見)、最近ドイツの文学賞まで受賞(ポエムが国境を越えるのは、柳美里の全米図書賞受賞で証明済み)した作品と自分の稚拙な(そして、通俗的な役割語の使用が致命的な)小品を比べて欲しくはないですね。

 この『おらおらでひとりいぐだ』ですが、タイトルが宮沢賢治の『永訣の朝』からの引用(元はローマ字)なんです。この詩については、高校の授業で習った記憶があってとても印象に残っているのに、情けないことにこのフレーズは覚えていなくて、読書SNSでフォローしている方の感想文で教えられました。

 以下ネタバレありです。

 さて、内容はというと、夫に突然先立たれ、子どもとも疎遠になった老女桃子さんの想いの移ろいといったところでしょうか。やがて、寂しさのあまり脳内の彼女の様々な想いが津軽弁や標準語で語り合うようになる。ヒロインの哀しみと葛藤、たどり着く境地が中心にあって、ほとんど筋立てのないような小説を、よく映像化できたものだと驚かされます。

 回想の若き日、親に決められた結婚の数日前に田舎を飛び出した桃子さんは、東京で住み込みで働き始めます。そしてある夜、故郷の山を夢に見る。

夜、だった。
……神々しくてしんと静まり返って人を寄せ付けない、震え上がるような威圧感があった。
美しい、凍える、山。

 わざとらしい改行と不必要な読点の多用にポエムはそっと忍び込みます。

子を産んだ、育てた。子が独り立ちした。
満ち足りていた。あの日までは。

 幸せはいつまでも続かないのだという普遍的な、ということは当たり前な真理を、わざわざ改行と倒置法を使用して述べています。その先にあるのは、もちろん最愛の配偶者の死です。『JR上野駅公園口』でも、主人公の妻の突然死が描かれていたことを思い出さずにはいられませんね。ここがポエマー(ポエット?)の腕の見せ所なんです。あまりに煩雑なので、以下引用文は部分的に省略しております。

死んだ、死んだ、死んだ、死んでしまった
死んだ死んだ死んだ死んだ……
死んでしまった死んでしまった死んでしまった……
いたましねなんたらばいたましねいたましねいたましね
周造、逝ってしまった、おらを残して
周造、どこさ逝った、おらを残して
うそだべうそだべうそだべうそだべうそだべ……
てへんだあなじょにすべがあぶぶぶぶ……
かえせじゃぁ、もどせじゃぁ
かえせもどせかえせもどせかえせもどせ……

 桃子さんの慟哭と混乱ぶりが伝わってくると同時に、哀しみの言語表現の難しさについて考え込んでしまうようなポエムではありませんか?

 ところでこの配偶者の死は、十五年前のことだとあります。いつまでも哀しみと寂しさに浸っているような桃子さんではありません。お墓参りをキッカケにある境地、悟りというわけではありませんが、自分の人生の肯定へと至ります。家族、子のため、夫のためではなく、自分の人生を生きるのだという高らかな宣言。

 故郷の山へ語りかけます。

おめはただそこにある。何もしない、ただまぶるだけ。見守るだけ。
まぶる。
それがうれしい。それでおらはおめを信頼する。
おらの生ぎるはおらの裁量に任せられているのだな。
おらはおらの人生を引き受ける。
そして大元でおめに委ねる。

 色紙に書いてトイレに飾っておきたいような名言ではありませんか。

 そして桃子さんは、ついに、とうとうすべてに意味を見出すようになる。

まぶしい。みな光輝いている。何事もここを先途と思えば、何もかも違って見えた。
雨上がりの緑のようにくっきりと色鮮やかに。光だけではない。音が澄み切って聞こえた。
(中略)
水を張った雑巾バケツに映る白い雲、ありがたい。犬の遠吠え、ありがたい。左手人差し指のささくれ、ありがたい。なんだって意味を持って感じられる。

 なんだか有名なマラソンランナーの遺書(「美味しゅうございました」が繰り返される)を思わせますね。

 自らの人生を肯定し、全てに意味を見出すような境地にたどり着いた桃子さん。この先に何があるのか。水平展開はもうこれ以上できないから、垂直展開しか残されていません。壮大なる全人類への讃歌は時間を遡るのです。アフリカ出発まで。堰を切ったようにポエジーがほとばしります。

歩いたんだべな、歩いたんだべ
寒がったべ。暑かったべ。腹も減っていだべな。
灼熱の砂漠を歩いだべ
遠くヒマラヤを横目に見だのが
凍てつくシベリアを歩いて来たのが
……
一度でもいい目をみたが、笑ったが
人を殺したが、殺されだのが
……
どこさ行っても悲しみも喜びも怒りも絶望もなにもかもついでまわったんだべ
それでも、まだ次の一歩を踏み出した
すごい、すごい、おめはんだちはすごい
気の遠ぐなるような長い時間を
つないでつないでつないでつないでつないでつなぎにつないで
今、おらがいる

 そうでしょうとも!

 ここまで書いてしまったら、一体次回作は何を書けば良いのだろうか、という心配は置いておいて、こういうポエムが有名な文学賞を取り、ベストセラーとなり、映画化され、更には海外の文学賞をも受賞するというのは、もうどうやっても自分の理解を超えてるんですね。つまり、先見の明がある審査員(文藝賞)、選考委員(芥川賞)の先生方に比べて、自分には絶望的なまでに見る目がない、と。言い換えると、壮絶なる孤独感です。

 桃子さんではないけれど、どうすっぺえとため息も出ます。こまったぁ、どうすんべぇ。

 自分もポエムを書く。書いてみる。

 ビールの泡、ありがたい。煙草の吸い殻、ありがたい。床の埃、ありがたい。白髪も、抜け毛も、ありがたい。便器の黄ばみ、ありがたい。みな光輝いている。『おらおらでひとりいぐも』、ありがたい。NOTE、ありがたい。ついでにNetflix、ありがたい。なんだって意味を持って感じられる。

 気の遠くなるような時間を
 つがってつがってつがってつがって交尾して交尾して交尾して交尾してまぐわってまぐわってまぐわってまぐわりまくって
 すごい、すごい、日本一、いや世界一!
 同衾して同衾して同衾して同衾して同衾しまくって
 今、ぼくがいる

 いんや、おらおらでひとりいぐも。

(了)

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