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美味しい「料理」って、自分が求めているものとちょっと違うんだよね。

昨日「ウド」の料理を作って、フェイスブックとインスタにアップした。
そのときに、感じて書いたことが以下。

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まあ、普通にうまい(^-^)

けど、別にウドでなくてよいものになってしまった。
キャラメリゼの味が強すぎて、ウドのよさが消えてしまった。
ウドはもう少し繊細な調味で、素材を生かしたほうがいいね。

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この投稿をしたあと、何やらモヤモヤが続いていた。
「このモヤモヤはなんだろう?」ということに対して、勝手に脳みそが自動操縦していたのだろう。
朝起きたらなんとなく「ふわり」と感じるものがあったので、消えてしまう前に備忘録的に書き残しておきたい。

えっーと、備忘録なのでオチはありません(笑)

自分が作りたい「料理」とは?

ウドのデザートを作ったこと、その出来に対して感じたことで、自分が作りたい「料理」というのが透けて見える。

それは、「美味しい」という定義の「料理」を作りたいというのではないということ。
そう、美味しくなくてもいいのだ。
じゃあ、どんな「料理」を作りたいのか。

自分が作りたい「料理」の定義に含まれるおもなものは下記。

①素材をいかす
②素材と素材の意外な組み合わせ
③感性を大事にする

もう少し分解して書いてみる。

①素材をいかす
・その素材の本来持っている個性や強みをいかす
・その素材をつぶすようなデコレーションにたよらない
・デコレーションというよりチューニング

②素材と素材の意外な組み合わせ
・常識、定番といわれているものを疑う
・決められたようなレシピは無視
・「個」の個性を光らせるために、どんな他の「個」を組み合わせるか

③感性を大事にする
・頭で考えすぎず、実際に手を動かしておもむくままに作ってみる
・うまくいかないことを楽しむ
・正解がないことを楽しむ

ウドのデザートは、たしかに美味しかった。
だが、その美味しさは、ウドが本来持っているものをいかした美味しさではなく、デコレートしたもの(キャラメリゼ・ハチミツ)の美味さであった。

つまり、美味しかったが、それは自分の作りたい料理ではなかったということだ。

「料理」に自分の生き方や思考、価値観が反映される

では、さきほどの自分の「料理」に、自分の生き方や思考、価値観といったものを当てはめてみたい。
「料理」と「自分」そのものは、完璧にリンクしているのである。

「→」から右側の部分は、自分が大事にしている価値観です。

①素材をいかす → 個性をいかす。強みをいかす。
・その素材の本来持っている個性や強みをいかす → 自分の与えられているカードをいかに使うか。人はすでに完成されている。
・その素材をつぶすようなデコレーションにたよらない → 個性や強みを殺さないようなことはしない。テクニックに頼らない
・デコレーションというよりチューニング → 資格や肩書などで自分を見せるのではなく、本質を見極めて強めて伸ばす

②素材と素材の意外な組み合わせ → 思い込みをはずす
・常識、定番といわれているものを疑う → 「常識」は他の場所では「常識」ではない。まずは疑う。世の中で「良い」「悪い」で判断されているものほど疑え
・決められたようなレシピは無視 → お手本をそのまま再現するだけでは新しいものは生まれない
・「個」の個性を光らせるために、どんな
他の「個」を組み合わせるか → 自分で一人でできることはたかが知れている。誰といっしょに組むことで幸せになれるか、笑顔になれるか

③感性を大事にする → ブルース・リーの名言「考えるな!感じろ!(Don't think, feel !)」
・頭で考えすぎず、実際に手を動かしておもむくままに作ってみる → 自分の思考や知識を信じない。世の中は自分の知らないことだらけ
・うまくいかないことを楽しむ → 人間万事塞翁が馬。うまくいかないことにも意味があるから、どんな意味づけをできるかで未来が変わる。人生はなるようになるしすべてはうまくいっている。ゆだねる。
・正解がないことを楽しむ → 世の中は学校のテストのように答えが1つしかないわけではない。正解を無理に出そうとしない。あるものはあるし、ないものはない。

楽しいかどうかが大事

笑えるくらい、自分の生き方や思考、価値観が、今の作りたい「料理」に反映されている。
まあ、上に書いたことは深堀りし、言語化したものだから、ちょっと細かすぎる。

もっとシンプルに言えば

楽しいかどうか。
面白いかどうか。

である。

わたしにとっての「料理」は、美味しくなくていいのだ。
楽しければいいのだ。
面白ければいいのだ。

「舌」を喜ばせるよりも、「心」や「五感」を楽しませたい。

楽しくない、面白くないことをして、人は幸せなのだろうか。
その答えは、誰にでもわかることだ。

でも、楽しくない、面白くないことを我慢してでもしないと、この社会では生きていけないし、成功もできないと考えてしまう。

おそらく、昭和の時代はそうだった。
わたしもそう教わってきたし、そういう人を見てきた。

だから、わたしも自分のブロックや洗脳を壊すのには苦労している。

でもこれからは、もうすこし楽しく面白くいきたい。
だから、すこしでも楽しく面白い時間を増やしたいのだ。
残されている時間はそれほど多くないはずだ。

きっと令和の時代は、自分も社会もそんな風に変化していくような気がするのだ。

もっともっと、自分が楽しくて面白い「料理」を作っていこう!

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