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正義と罪人

この週末、夫に申し出て休みをとった。主婦と母の休み。一日の作業のほとんどを夫にお願いし、ごはんも作ってもらった。雨予報だったけれど息子と夫には一日中出かけてもらい、ひとり家でゆっくりした。
そうしたらエネルギーが湧いてきた。久しぶりに自分からパワーが出てきた感じ。ひとり時間って大事だと思い知らされた週末、元気になったおかげで映画を見られるようになった。
ずっと見たかった「検察側の罪人」を見た。

とてもおもしろかった。
木村くんも、ニノもすごくよかった。終始笑いはなくてずっと真剣な役で2人の演技に引き込まれる。進みが速くて少し気を抜いたら置いてきぼりになりそうけど、聞き逃しても見ていられるテンポ感が心地よくて好き。この速さで内容をきっちり把握させ、さらに感情を揺さぶる演出がなされてるのはさすがでした。
ニノが検察官として犯人に迫るシーンはすごい気迫で圧倒され、木村くんがまさか拳銃で撃っちゃうとは驚きまくりでした。木村くんのかっこ悪い演技がすごく好き。かっこ悪かっこいいんだよな。ダサい役もこなすけど、芯はブレないキムタクで、年の重ね方がすごく素敵です。

映画を見て一番印象に残ったところというか、思い出したことがありました。

世界には、善良な人ばかりではないということ。
人は全員同じように善良な部分を持っている訳ではなかった。
もちろん善良が人それぞれ違うという意味もあるけど、ここではそういう意味ではなく、どんなことよりも自分の感情や欲望を満たすことを優先してしまう人がいるってこと。忘れていました。
この映画にはそういう人が出てくる訳なんだけど、本当に人としてやばいと思える犯罪者であり、こういう人がいるのに、自分以外の人を安易に信じすぎているところがあるなと、思ったのです。

最近はコロナ禍ということもあり、愛とは何かと考えることが多かった。愛とは?

今は絶版になり、高値になっている「アミ小さな宇宙人」シリーズ、今3冊目を読んでいます。
アミの話を聞いていると、誰でも心の奥底には愛があり、誰とでもつながってるんだなと思える。その感覚がすごく温かくて気持ちいい。世界がひとつになったらもっと楽に生きられそうだなって思う。どんな罪人も、自分の中にある愛に、誰もが持っている愛に気が付ければ、罪という形で表現する必要はないのにな、などとしばらく考えていました。

だけど、まだそういう世界じゃないんだった。
自分の感情を大事にすることを名分に、何をやってもいいと思っている人が少なからずいる。そしてその人に、正義と愛をぶつけても何も響かない。残念だけど、まだそんな世界だ。そういう人とどう付き合っていくか見定めないと、下手すりゃ殺されることもあるということ。ターゲットにされたら本当に危険が伴うのです。

とは言え、こういう危険な人にまで、つい同情してしまう感情がある。もしかしたらこの人にも何か事情があったんじゃないか、うまくアプローチすれば心を開いてくれるんじゃないか、話せばわかるんじゃないかと、本質的に危険な人だとあきらめきれないことが多いのです。だって、この映画に出てくる危険な人(男性・60代くらい・もちろん犯罪者)も、検察官役のニノに責められたとき、出てきた言葉は「ママー!」だった。
やはり幼い頃、親に恵まれなかったという事情があるのか、、と一瞬は思ったが、この犯罪者が本当に人とは思えないために思いとどまりました。

先日から、なんでこのタイプの人ばかりが気になってるかっていうと、最近、親友だと思っていた友人に裏切られたと感じる出来事があったんです。
3年くらい前に仲良くなったママ友で、子供たちも仲がよかった。なんでも話せて、なんでも話せると言ってくれて、よく飲みに行ったし2人でもたくさん話をした。このままこの地域に住み続けて、子供たちが大人になっても長い付き合いができそうだなって、おばあちゃんになる頃のことまで想像して心を温めていた友人だっただけに、すごくショックでした。
なかなか事実を受け入れられず、友人であることを諦めきれず、どうにか元に戻れないかと長い時間をかけて試行錯誤したんだけど、2週間くらい前にもう無理だと思う決定的な出来事があり、私の友人リストから彼女を外しました。

そうしたら、前回の記事ができた訳なんだけど。

私は、都合が悪くなると逃げたり、自分の都合のためなら相手の事情はいっさい酌まないような人間が嫌いだ。さっきの犯罪者の例で書いたことと同じだけど、自分の何かを大事にするためだったらなんでもやっていいと思っているような振る舞いは、胸糞悪くて受け入れたくない。昨今の自分を大事にするブームの悪い影響だと思っている。
自分が一番、自分を一番大事にしよう、それは当たり前だ。ありのままでいよう、それもそうだ。そんな世界になってほしい。そんな世界にしようよ。
だとしたら、それは相手にとってもそうなんだ。相手には相手の大事がある。相手の世界がある。相手の自由がある。自分から見た景色だけがよければいい訳じゃない。
それはただの自己中なんじやないのか。

友人の振る舞いは、私にとってこの映画に出てくる犯罪者の振る舞いと大差なかった。友人は自分の都合のために私から逃げた。聞いても何も答えなかった。すかされただけだった。

あなたのありのままと、私のありのまま、それを認め合えればそれでいいんじゃないだろうか。ただ単純に、そういう考え方もあるんだね、あなたはそう思ったんだね、私はこう思うよ、じゃあどうしていこうか、何かいい方法はないか。これを話せればいいんじゃないだろうか。どうして間をとった結末じゃだめなのか。どうして話さないのか。どうして無視するのか。どうして逃げる必要があるのか。

映画のテーマは「正義」だった。
自分の正義を振りかざすために勝手なストーリーを作ってはならない。ときに検察側が暴走することがあると。

正義とは人それぞれ違うものだ。どっちが正解か決めたくなるが、正解なんてあるのだろうか。法律が絡むことでなければ、私はどこかに合致点があるんじゃないかと思っている。合致点を探そうよ。話せば少しは近づけるかもしれない。誰もが少しずつ気持ちよく過ごせる場所があるかもしれない。人なら、それができるんじゃないかって思う。
だから、何でもいいから、とりあえず話そうよ。話し合おうよ。

結局これも、私が信じ過ぎた正義のストーリーにすぎないのだろう。

話したい正義と、話したくない正義がぶつかったとき、どうすればいい? 

今のところ答えは見つからないです。
自分の正義を振りかざしすぎないようにしながら、考え続けることに意味があるのか。

私は話したいんだけどね。しつこいか(笑)

みなさんの正義を知りたいです。

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