いただきます
■2018/08/11 山の日
よう、と、ヒデさんが僕の前にやってきて、白い発泡スチロールの器を差し出した。ゴロゴロとした肉の塊と、脂の浮いた汁が入っている。野菜も薬味もない、シンプルな汁だ。
「自分で仕留めたヤツだからの。ウマいど」
ヒデさんは御年八十にして今なお現役のマタギである。地元猟友会の長老的存在で、数多の獣を仕留めてきた大ベテランだ。対する僕は、狩猟歴三年のド新米である。僕も、新米なりにこれまで鴨や猪は撃ってきたのだが、今日の獲物は格が違った。
熊である。
八月十一日、山の日。猟期でもない夏の最中、僕を含む猟友会メンバーは山中で熊を追った。ここのところ頻繁に人里に下りてくる雌熊がいて、「害獣駆除」の依頼が猟友会に寄せられたからだ。
僕は熊を追い立て、撃ち手の待つ射場に追い込む役だった。ベテラン猟師の隙間に入って、さほど広くないエリアを担当したのだが、熊というのはとてつもなく賢い。追い立てられながら、僕の未熟さに気づいたのかもしれない。射場ではなく、僕のエリアに真っすぐ突っ込んできていたのだ。気づいた時にはすでに、二十メートルほどの距離に近づいていた。
震える声を押し殺しながら、無線で「熊がいる」と伝える。
――ショウブしな。
無線を通して、ヒデさんがそう言った。
熊は草の陰で、じっと僕を見ていた。雌のツキノワグマ。間近で見ると、もはやバケモノだ。犬でも牙を剥かれたら恐ろしいのに、相手はさらに何倍もデカい猛獣だ。
僕は、腹を括って銃口を熊に向けた。スコープを覗くと、熊の顔がはっきりと見える。真っ赤な口。逆立った毛。銃を向けると、熊が咆哮を上げて突進してきた。僕が一瞬見せた殺気を敏感に感じ取ったのだ。
――怖い!
迫りくる熊に向かって引き金を引く。発砲の衝撃とともに、熊の右肩が弾けるのが見えたが、致命傷には至らない。熊は血をこぼしながら後ずさりし、手傷を負わせた僕をねめつけた。手負いの熊の恐ろしさはさんざん聞かされている。両の目から溢れる凄まじい殺意。荒い息遣い。鼻をつく血の臭い。慌てて次弾を装填しようとするが、金縛りにでもあったように、僕は動くことができなかった。
食い殺される。そう思った瞬間、山に銃声が響き渡り、目の前の熊が血を吹いた。一瞬のうちに猛獣の目から生命の輝きが消え、その場に倒れた。それきりもう、動かなかった。
後から聞いた話だが、ヒデさんが隣の尾根から僕に向かってくる熊を見つけ、ライフルで狙撃したらしい。二百メートルは離れていたはずだが、弾丸は恐ろしいほど正確に急所である首を貫いていた。
「食わねえのかい?」
ヒデさんが、僕を覗き込みながら笑みを浮かべた。ショウブしろ。そう言った時にはすでに、ヒデさんは熊を捉えていたはずだ。けれど、あえて僕に一発撃たせたのだろう。
熊と対峙した一瞬。銃を持っていても体が恐怖ですくんだ。熊も本能的に銃の怖さを嗅ぎ取っていたかもしれない。あの一瞬だけ、僕は熊と対等だった。対等な、命であった。
「いただきます」
僕がそう答えると、ヒデさんは「ええショウブじゃったの」と笑った。僕は汁に向かって手を合わせ、少し臭みのある肉を口いっぱいに頬張った。
小説家。2012年「名も無き世界のエンドロール」で第25回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。仙台出身。ちくちくと小説を書いております。■お仕事のご依頼などこちら→ loudspirits-offer@yahoo.co.jp