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添削屋「ミサキさん」の考察|42|『文章の書き方』を読んでみた⑫

|41|からつづく

――触る感覚について

石川淳焼跡のイエス』より。

 わたしは決心してくるりとふりむいた。とたんに、敵がぱつと飛びかかって来た。土を蹴ってぶつかって来たものは、悪臭にむつとするやうなボロとデキモノとウミとおそらくシラミとのかたまりである。それを受けとめようとして揚げたわたしの手に、敵の爪が歯が嚙みついて来て、ホワイトシャツがびりりと裂け、前腕にぐいと爪が突き立つのを感じた。そのあとは夢中であつた。わたしはボロとデキモノとウミとおそらくシラミとのかたまりと一体になつて地べたにころがつた。その無言の格闘の中で、わたしはからうじて敵の手首を押さへつけることができた。ひどい力で、すばやく動く手首である。しかし、それはおもひのほか肌理(きめ)がこまかで、十歳と十五歳の中ほどにある少年の、なめらかな皮膚の感触であつた。

「この作品では、主人公と少年の間に言葉の交流はいっさいありません。あるのは肉体のぶつかりあいだけです。人間同士の会話はなく、あるのは原初のぶつかりあいです。……読者を『もうたくさんだ』という思いにさせておいて、ふいに、作者は書くのです。その手首が『おもひのほか肌理(きめ)がこまかで』『なめらかな皮膚の感触であつた』と。」

個人的な希望ですが、私はいわゆるアクション、あるいは身体感覚をきちんと描ける物書きになりたいと思っています。現代のミステリ、サスペンス、ハードボイルド、ノアールなどには、アクションや身体感覚の凄まじい描写が多いですね。枚挙にいとまがありません。
わりと、そういう迫力のあるものを読むのも好きだし、自分でもうまく書きたいのですが、私自身はかなり非アクティブなほうです。運動神経もかなり悪いし。

それはそうと、先の『焼跡のイエス』。想像すると背筋がぞわっとするような汚濁にまみれた少年(戦中戦後にはこういう少年がたくさんいたのでしょう)、他方その少年の肌のなめらかさ、少年らしさ。この対比が見事ですね。

――聴覚について

ジャーナリスト・疋田桂一郎の文章。

 北関東の森の中で週末をすごした。木のにおいがまじった空気のあまさ。夜はびっくりするほどの星の多さ。それに音だ。音に、近い音と遠い音とがあった。
 近い音は、たとえば絶えまなしに耳もとでうなる虫の羽音とか、奥で茶碗を洗う音。とつぜん雨粒が屋根をたたく音。夕立があがって、風もないのに、思いがけなく、こずえがさわぐ。見ると、リスが枝から枝へ飛んでわたるところだったりした。
 遠い音といえば、風の音、水の流れの音、犬の遠ぼえ、野鳥の声、子どもの叫び声。おなじソプラノで、子どもの声より鳥の声のほうが速く鋭く一直線に走った。鳥はこずえでなくからだろう。天から降ってくる。子どもの声は、深いやぶを通ってくるためか少しずつ残響があった。
 都会で暮らしていて、そういう遠い音を、ひさしく聞かない。都会でも犬はほえ、横丁で子どもは叫び、遠い音はあるはずだ。それが聞こえなくなった。救急車のサイレンとかジェット機とか、実際には遠い音なのに、頭の中で鳴っているような感じで聞く。都会には音に奥行きがない。

 森の中の音と都会の音、近い音と遠い音という観点で分析的に表現していますね。なるほど、確かにそうだな、と思わされます。いわば、「音の観察」でしょうか。
 
 また、引用した辰濃さんは、次のように言います。

「これだけさまざまな音のことを書きながら、筆者はオノマトペを一回も使っていません。オノマトペというのは、サラサラ流れる、ヒュウヒュウ風が吹くというときのサラサラ、ヒュウヒュウにあたるものです。擬声語、擬態語のことです。この文章の場合は、ひとつの音にだけ擬声語を入れたら、そこだけが浮いてしまうでしょう。オノマトペがまったく使われていない分だけ、読者の想像力をかきたててくれます。北関東の森に連れていってくれます。……」

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