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添削屋「ミサキさん」の考察|36|『文章の書き方』を読んでみた⑥

|35|からつづく

現場――見て、見て、見る

 文章の生命は現場です
 東京と埼玉を結ぶ「国道17号新大宮バイパス」のあたりがゴミ捨て場になっている、という記事がありました。記者は現場でゴミを調べて、こう書いています。
「中央分離帯の植え込みでゴミを集めてみた。一平方メートルだけで、約五キロが集まった。内訳はジュース類の空き缶四十二個、カップラーメンの容器二個、プラスチック製の弁当箱八個、週刊誌三冊、バナナとミカンの皮二つずつ、清涼飲料水のビン二本、自動車用のヒューズ、汚れたちり紙、荷物の送り先の地図、メモ、吸い取った髪の毛やほこりが入った電気掃除機の袋が一つ……」
 ただ「ゴミが多かった」では臨場感がない。空き缶だけでも四十二個あったという事実を書くことで、この記事はにわかに活気づきます。「髪の毛やほこりが入った電気掃除機の袋」という描写がなまなましさを出しています。これだけの細密描写を試みたことで、中央分離帯のゴミは「個性」をもつことができました。現場でものを見るとは、ものごと、ことがらの個性を見つけることです。個性をはっきりさせるために、記者は電気掃除機の中身にまで目を光らせるのです。(強調は引用者)

非常に興味深いお話だと思います。新聞記者のお話ですが、小説など文章を書く者には大いに参考になるのではないでしょうか。
面白いので、他の例も続いて引用しますね。

 学者には二つの型がある、と京大教授だった桑原武夫が書いています。
 割り切っていえば、読書家と観察者です。万巻の本を読むことを勉強の基本とする人と、本も読むが、みずからハエを飼い、野外に出て観察を怠らない人、という分類です。
 桑原はある日、研究所の仲間たちで一泊旅行をしました。バスをおりてから、目的地まで二キロほどの道を歩く。そのときのことを桑原が書いています。
「両側には麦がよく生長している。小川のふちにかきつばたが美しく咲いている。おもしろいところに、かきつばたがあるな。それから農家の横に、花はつけていないが梅の木がある。すこし向うの農家では屋根をふきかえており、小さな水たまりで子供がカエルを釣っている。とんぼが飛ぶ。そうしたいろんなことを見ながら歩いていった」
 今西錦司や梅棹忠夫はやはり、同じようによく観察して歩いていましたが、遅れてやってきた仲間の多くは、道がしんどかったというだけで、観察事象はゼロでした。
 桑原は、外の世界をじかに観察する力をもつことは大切なことだと説きます。現場を大切にせよ、ということです。

小説においてこういう「観察」は命ともいえると思います。文字通り、命を吹き込むのです。
それを実感した例、東野圭吾さんの『容疑者Xの献身』の冒頭数ページを、次にご紹介したいと思います。

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