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添削屋「ミサキさん」の考察|44|『文章の書き方』を読んでみた⑭

|43|からつづく

二、〈平均遊具品〉の巻――文章の基本――

この章では、「平明(1)――わかりやすさの秘密」「平明(2)――読む人の側に立つ」「均衡(1)――文章の後ろ姿」「均衡(2)――社会の後ろ姿」「遊び――異質なものとの出あい」については割愛いたします。ご興味のある方は、辰濃さんの本をお読みください。

具体性――細部へのこだわりを

「新聞の記事では『具体的な事実』が命です。」

自分は新聞記事を書くつもりはないよ、という方も、おつきあいください。
毎日新聞の編集委員だった早瀬圭一『過ぎし愛のとき』より。

 冬子はくる日もくる日も午後になると、博士(はかせ)を車椅子に乗せて地蔵湯に連れていった。午後の早い時間だとまだ温泉にくる観光客の姿もまばらだ。すいている時間をねらわないと、男湯に入るのは恥かしい。冬子はなるべく入浴客のいない時間に来て博士を車椅子から抱え降ろし、手早く衣服をぬがせて裸にし、背中におぶって大きな湯船に行く。温泉にゆっくりつけてから洗い場で軽くマッサージをする。博士が片手をあげて何か言う。湯につかりたいと言っているのだ。冬子は『よっこらしょ』とかけ声をかけながら博士をだっこしてゆっくり湯につける。冬子の着ているものはびしょぬれになっている。そんなことを気にしていたら博士を温泉に入れることなど出来ない。湯からあがると再びマッサージだ。何度か繰り返す。冬子に額に玉のような汗が吹き出てくる。

この文章を評して、辰濃さんは以下のように述べます。

 文章のどこを切っても、そこから血が吹き出すように「具体的な事実」がでてきます。こういう日課を繰り返すのは容易なことではないでしょうが、「この女性はこんなに大変なことをしているんだぞ」と読者に押しつけるところがない。平易な言葉で具体的な事実を描いているだけですが、その苦労の並々ならぬことがおのずから読者に伝わってくる。長年、具体性を追求する訓練を己に課してきた人の文章です。
 老いて、脳溢血で倒れた学者の面倒を見る女性、冬子から聞いた話をもとにして構成したものでしょうが、相当ねちっこい取材をしないと、こういう細密描写はできません。筆力というのは、決して筆先の力ではない。取材の対象となる人が心を開いてくれなければ、こういう取材はできません。
(強調は引用者)

考えさせられる指摘だと思います。小説であっても、具体性・リアリズムの追求は必ず必要になることと思います。
たとえ表された文章は抽象的で観念的なものとなったとしても、その底に具体性・現実性がないものは力を持たないと私は思っています。
これは異論があるでしょうが、私自身はそういう考え方で文章を書きます。

上の文章では「取材」とされていますが「観察」と言いかえてもいいように思われます。
観察と描写の訓練は日頃から(たとえ文章化しなくても)、心がけておきたいところです。

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