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添削屋「ミサキさん」の考察|37|『文章の書き方』を読んでみた⑦

|36|からつづく

東野圭吾『容疑者Xの献身』冒頭部分

これはテキストに載っているわけではないのですが、ぜひご紹介したく、引用させていただきます。ひとつの文章のお手本だと思っています。(なお、長いので抜粋です。)

 石神は目の前の信号が赤になるのを見て、右に曲がった。新大橋に向かって歩いた。向かい風が彼のコートをはためかせた。彼は両手をポケットに突っ込み、身体をやや前屈みにして足を送りだした。
 暑い雲が空を覆っていた。その色を反射させ、隅田川も濁った色に見えた。小さな船が上流に向かって進んでいく。それを眺めながら石神は新大橋を渡った。
 橋を渡ると、彼は袂にある階段を降りていった。橋の下をくぐり、隅田川に沿って歩き始めた。川の両側には遊歩道が作られている。もっとも、家族連れやカップルが散歩を楽しむのは、この先の清洲橋あたりからで、新大橋の近くには休日でもあまり人が近寄らない。その理由はこの場所に来てみればすぐにわかる。青いビニールシートに覆われたホームレスたちの住まいが、ずらりと並んでいるからだ。すぐ上を高速道路が通っているので、風雨から逃れるためにもこの場所はちょうどいいのかもしれない。その証拠に、川の反対側には青い小屋など一つもない。もちろん、彼等なりに集団を形成しておいたほうが何かと都合がいい、という事情もあるのだろう。
(中略)
 塒のそばで大量の空き缶を潰している男がいた。そうした光景はこれまでにも何度か見ているので、石神はひそかに『缶男』という渾名をつけていた。『缶男』は五十歳前後に見えた。身の回り品は一通り揃っているし、自転車まで持っている。おそらく、缶を集める際には機動性を発揮するに違いない。集団の一番端、しかも奥まった場所というのは、この中では特等席に思われる。だから『缶男』はこの一団の中では古株だろうと石神は睨んでいた。
 青いビニールシートの住居の列が途切れてから少し行ったところで、一人の男がベンチに座っていた。元々はベージュ色だったと思われるコートは、薄汚れて灰色に近い。コートの下にはジャケットを着ているし、その下はワイシャツだ。ネクタイはたぶんコートのポケットに入っているのだろうと石神は推理した。石神は彼のことを『技師』と名付けていた。先日、工業系の雑誌を読んでいるのを見たからだ。髪は短く保たれているし、髭も剃られている。だから『技師』はまだ再就職の道を諦めてはいないのだ。今日もこれから職安に出向くつもりなのかもしれない。しかしおそらく仕事は見つからないだろう。彼が仕事を見つけるには、まずプライドを捨てねばならない。石神が『技師』の姿を初めて見たのは十日ほど前だ。『技師』はまだここの生活に馴染んでいない。青いビニールシートの生活とは一線を画したいと思っている。そのくせ、ホームレスとして生きていくにはどうすればいいかわからず、こんなところにいる。
 石神は隅田川に沿って歩き続けた。清洲橋の手前に、三匹の犬を散歩させている老婦人がいた。犬はミニチュアダックスフントで、赤、青、ピンクの首輪がそれぞれに付けられていた。近づいていくと彼女も石神に気づいたようだ。微笑み、小さく会釈してきた。彼も会釈を返した。
(中略)
 彼女がコンビニの袋を提げているのを石神は見たことがある。袋の中身はサンドウィッチのようだった。たぶん朝食だろう。だから彼女は独り暮らしだと石神はふんでいる。住まいはここからさほど遠くはない。以前、彼女がサンダル履きだったのを見ているからだ。サンダルでは車の運転はできない。つれあいをなくし、この近くのマンションで三匹の犬と暮らしているのだ。しかもかなり広い部屋だ。だからこそ三匹も飼える。また、その三匹がいるから、ほかのもっとこぢんまりとした部屋に越すこともできないのだ。ローンは終わっているかもしれないが、管理費はかかる。それで彼女は節約しなければならない。彼女はこの冬中、とうとう美容院には行かなかった。髪を染めることもしなかった。

 主人公「石神」の目を通していますが、作家の観察眼に驚きます。しかも、この冒頭部分が物語の伏線にもなっているのですから。
 また、こういった叙述は、文章がうまくないと単に退屈な描写となってしまいます。その意味でも非常に力量を感じさせます。

|38|につづく

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