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添削屋「ミサキさん」の考察|39|『文章の書き方』を読んでみた⑨

|38|からつづく

無心――先入観の恐ろしさ

この章も面白いのですが、ジャーナリズム論といった方がよい箇所なので、ここでは割愛します。

意欲――胸からあふれるものを

【山田太一の言葉】

 テレビドラマでおなじみの山田太一が、こういうことをいっています。
「大学が素晴らしいのは、短い間にせよ、有用性から解放される時期があることだと思う。(略)大学へ入ってまで『役に立つ』勉強ばかりしていてはもったいないと思う。有用性から解きはなたれて、自分が本当はどんなものに関心を持っているかを知るチャンスだと思う。そして、なにか一つ、傍目にはくだらなく思えるものでいいから、深く好きになることだと思う。そういうことで、どれだけ魂みたいなものが育つか分からないと思う」
 山田はさらに、なにか一つ、自分が本当に好きになるものを発見することだ、なければ無理にでもつくって、それに集中することだ、心から好きなもの好きなことがなにもないというのははずかしいことなんじゃないか、とまでいっています。

一見大学生の特権(?)のように読めて鼻白む方もいるかもしれませんが、これは大学の新入生にむけての言葉です。言われていることは、何も学生に限ったことではありません。ちなみに、この文章が書かれた1990年代中盤ならまだ大学はそういう場所だったかもしれませんが、現在の大学は「実学」重視にシフトしているので、現役大学生であってもしっくりこないかもしれません。

でも、大事なのは、「好きなものに集中しているうちに、何かの形で文章にしたい、誰かに伝えたい、という意欲が湧き出てくる。そうなったらしめたもの」(辰濃)ということでしょう。

現に、もう若くはない私ですが、好奇心は忘れずにいたいと思っています。それで、読書を欠かしません。本当はもっといろいろな体験もしたいのですけれど。

でも、「書くことのできる材料は、巷にあふれているのです。電車の中の光景にもあります。なにげない雑談の中にもそれはあります。それを、心にとめておいて、書く」。

 山肌にしみこんだ水がやがて、泉となってあふれでてくるように、好奇心によって心にしみこんだ水はやがて、あふれでてきます。そのあふれでてくるものを人に伝えたい、と思うのもまた、意欲です。見たい、知りたい、体験したいという意欲の激しさと、書きたい、伝えたい、表現したいという意欲の強さが火花を散らす時、文章の質は深まります。
 あふれる泉を人に飲んでもらうために、文章という器をつくります。その器の大きさ、形、材質をきめる作業、実際に器をつくる作業のために、私たちは、時には心の弾む思いをし、時には七転八倒の苦しみを味わうことになります。

いい言葉ですね。

|40|につづく

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