読書記録(04)三浦綾子『塩狩峠』

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*結末に関するネタバレを含みますのでご注意ください*


三浦綾子記念文学館

2年近く前、北海道旭川旅行中、三浦綾子記念文学館に立ち寄った。
 
着いて驚いた。館の隣の林。『氷点』のイメージそのまま。作品の世界から出てきたよう。

恥ずかしながら、完読したことのある作品は『塩狩峠』(1966年)だけだった。それも小学生の頃の話で、意味をよく理解できていなかったはず。なお、『氷点』は上巻の途中までしか。

ひととおり館内を見てまわり、やはり『泥流地帯』『氷点』を読みたくなった。でもその前に、大人になった今、やはり『塩狩峠』を改めて読むのが先決と思い、そこからまた期間が空いたものの、ようやく今。

あらすじ

主人公・永野信夫。ときは明治。死没したと思っていた母は実は存命だった。クリスチャンであることにより、義母から追い出された経緯を知る。差別意識が根強かった時代。信夫の母妹は、別宅で父親に匿われていたことが分かる。

息子である自分よりも信仰を優先した母を理解出来ない信夫だったが、父親、友人吉川、そして誰よりも母と過ごすうちに、キリスト教への眼差しが変容する。

吉川の妹ふじ子を愛するようになった信夫。ふじ子もまた、病褥に身を窶す中で信仰に目覚めていた。やがて、信夫自身も洗礼を受け、キリスト教に心身を捧げるようになる。

長い期間をかけ、病を克服したふじ子。2人の結納の日。信夫の乗った列車が塩狩峠に差し掛かると、坂道で暴走を始める。車両故障だった。鉄道員(事務担当)としての使命感、それ以上に、信仰に裏打ちされた自己犠牲の精神によって、信夫は身をレールに投げ出し、己の死と引き換えに列車を止めた。救われた多くの命は尊いが、ふじ子の絶望は深い。しかし、これほど正しく生きた者を夫にもつことの「しあわせ」もまた、比類ないものであった。

作品について

実在する人物・長野政雄氏がモデルである。著者自身がクリスチャンであり、長野氏の敬虔な生涯と人柄に感銘を受け、後世に語り継ぐべきとの思いから筆を執ったと伝わる。

したがって、キリスト教の宗旨が特に後半で強く描かれる。信夫の最期の行動も、その文脈。ちなみに本作は、日本基督教団の月刊誌『信徒の友』に連載されたものである。

ではキリスト教礼讃の布教本か、というと、そうではない。信夫は、信者である前に「永野信夫」だからだ。人としてどう生きるべきかを追究する性格は、信仰の前から確固たる人格として一貫している。ここに、本作は、純粋なる小説としての座標点を得ている。重要部分はモデルとなった本人になぞらえているが、あくまでオリジナルの主人公の一代記であり、長野氏の伝記ではない。
 
平易な文体で紡がれる、信夫の内省。1966年(昭和41年)の作品、まして明治初中期が舞台であるが、古さを感じないし、けれんみのない柔らかな表現が読みやすい。そうでありながら、信夫の心の声、あるいは信夫のまわりの人々の語らいを通して、生とは―、死とは―、友情とは―、愛とは―などを考えさせられる。テーマは重い。

共感した部分

「約束を破るのは、犬猫に劣るものだよ。犬や猫は、約束などしないから、破りようもない。人間よりかしこいようなものだ」
(だけど、大した約束でもないのに)
 信夫は不満そうに口をとがらせた。
「信夫。守らなくてもいい約束なら、はじめからしないことだな」

新潮文庫P67

『きらきらひかる』という往年のドラマで、同じような話が出てきた。約束は守るのが大事か、約束そのものが大事か、という話の流れで、「結局、約束をしない人が最も誠実だ」と。

このごろ信夫は、いつも口まで出かかってやめることがしばしばある。なぜか、言おうとしている言葉が、どれも大した意味のある言葉に思えなくなってしまうのだ。言おうとした言葉を心の中で言ってみると、どの言葉もその大半は言わずにすむような気がするのだ。信夫は、人と言葉を交わすことにむなしさを覚えはじめていた。

新潮文庫P160

これは、作中の信夫にとっては思春期の一過性のものだったが、30代半ばの当方としては、近ごろまさに同じことを感じている。

 (前略)人間というものは過失を犯さずには、生きて行けないものだということをつくづく思うようになった。
 よいことだと知りながら、それを実行するということは、何とむずかしいことなのだろう。したいと思うことをし、してはいけないと思うことをやめればそれでいいはずなのだ。ところがそうはいかない。全く君のいうとおり、人間て不自由なものだね。

新潮文庫P175

(法律にふれない罪でも、法律にふれる罪より重い罪というものがないだろうか)

新潮文庫P188

 だが、どうも罪という言葉は、考えれば考えるほどわからないところがあった。他人に迷惑も与えなければ、それでいいというものでもないような気がする。
(中略)
(だれにも知られない、奥深い心の中でこそ、ほんとうに罪というものが育つのではないだろうか) 

新潮文庫P190

等々、読みながら傍線を引いた箇所は多い。

ふじ子

ところで、本作は、ラブストーリーでもある。

信夫は、親友吉川の妹ふじ子に密かな恋心をいだき、吉川一家の住む北海道に移り住んだ。病魔に冒されるふじ子は、家を出ず、自室で起臥する毎日。信夫が東京から送った押し花が心の慰めになっていた。その押し花が大切に飾られているふじ子の部屋へ信夫が足を踏み入れるシーンは、胸に迫るものがある。

病気の不治を悟るふじ子に、諦めてはならないと励ましながら結婚の申し入れをする場面も、美しい。

果たして病が癒えたふじ子は、信夫急死の衝撃を受けながら、信夫の妻であることに誇りをもつ。事故現場へ手向けるのは、雪柳の花束だった。

信夫がいく度が言ったことがある。
「雪柳って、ふじ子さんみたいだ。清らかで、明るくて」

新潮文庫P436

作中の別箇所で「柳に風折れなし」という言葉が出てくる。風でなく「雪折れなし」とも言われるようだ。柔らかくしなかやかなものは、風や雪に折れず、むしろ強い。生まれつき脚の一部が不自由なうえ、難病にかかり、治った矢先に最愛の夫を亡くした。そうした境遇でも強く生きるふじ子の姿が、雪柳に仮託されている。(厳密には雪柳は柳の一種ではないが、柳と同じく枝垂れる)

そんなふじ子であっても、いくら信仰に守られているとはいえ、一人の女性として、夫の死が悲しくないはずはない。兄吉川と二人、事故現場にたどりついたラストシーンは、何度読み返してもぐっとくる。

そして、最後の一行が、小学生の時分に読んだ当時から不思議と心に刻まれて忘れられない。

最後に

本作の余韻が落ち着くのを待って、『氷点』『泥流地帯』などへすすもう。

なお、旭川の三浦綾子記念文学館とは別に、和寒町(わっさむちょう)に塩狩峠記念館がある。ここにもいつか、ぜひ行ってみたい。

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