読書記録(05)川端康成『みずうみ』

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ストーカーの気味悪い話。…といえばそれまでだが、川端作品である以上、それが作品の本質ではない。

なぜ『みずうみ』というタイトルか。主人公・桃井銀平の幼い頃の記憶の端々に、みずうみが登場する。家の近くにあった。父はそこで死んだ。銀平は、鼠の死骸を放り投げたこともある。

一方、初恋の相手である従姉「やよい」と、みずうみを歩いた淡く静謐な思い出。美しい従姉。それ以上に美しかった、銀平の母。

しかし、父の死から間もなく、やよいや母との関係は断絶する。なぜか。父と銀平は、醜い者同士だったから。

父の死によって、それまでの均衡が崩れ、銀平は母方の家系(母、やよい等)から蔑みを受ける。ここに、銀平の鬱屈した自己嫌悪と劣等感が渦を巻く。

醜さの象徴として、銀平の“猿のような足“が度々語られる。先天性の何からしいが、詳細は明かされていない。いずれにしても、”醜“である銀平は、”美“である少女・女性に対し、憧憬・渇望・憎悪・殺意が混濁した執着心を燃やし、ストーカー行為を働く。醜い”足“をつかって。

美と醜は川端康成にとってこだわりのあるテーマのよう。そして、美よりも醜こそが心に刻まれやすいという人間のさがが、次のように語られる。

空っぽに軽くなったような、むなしくなったような銀平に久しぶりの古里が浮かんで来た。変死の父よりも美貌の母が思い出される。しかし母の美しさよりも父の醜さの方がはっきり心に刻みつけられている。やよいのきれいな足よりも自分の醜い足が見えて来るようなものだ。

(『みずうみ』新潮文庫P167)

これと同様の表現が『千羽鶴』でも出てくる。

親しい人、愛するものほど、思い描けないのかもしれない。また醜いものほど、明確な記憶にとどまりやすいのかもしれない。

(『千羽鶴』新潮文庫P151)

美にこだわることは、醜へのこだわりと表裏一体。それゆえ、最終盤では、あえてゴム長靴の醜い女と関係を持とうとするが、未遂に終わる。

読み解けなかった点が2つ。

一つは蛍。作中に二度出てくる。幼い頃、やよいと二人、それぞれの蚊帳に蛍を放し、数を競った思い出。そして、大人になった銀平が、美少女町枝を蛍狩りの会場で待ち伏せするシーン。そこでの一節。

人々が寄ってたかって、どよめいて捕えようとする蛍の火は、こんなに頼りなげに飛ぶのだろうかと、銀平は母の村のみずうみに見た蛍を思い出そうとした。

(『みずうみ』新潮文庫P153)

蛍は何かの象徴だろうか。考えるヒントとなりそうな記述は、蛍と蚊帳の思い出に続く部分にある。

銀平はこのごろでもときどき、母の村のみずうみに夜の稲妻のひらめく幻を見る。ほとんど湖面すべてを照らし出して消える稲妻である。その稲妻の消えたあとには岸べに蛍がいる。岸べの蛍も幻のつづきと見られないことはないが、蛍はつけ足りで少し怪しい。稲妻の立つのはだいたい蛍のいる夏が多いから、こういう蛍のつけたりがあるのかもしれぬ。いかに銀平だって蛍の幻をみずうみで死んだ父の人魂などと思いはしないが、夜のみずうみに稲妻の消えた瞬間は気味のいいものではなかった。

(『みずうみ』新潮文庫P130)

これらのシーンを読んでみても、蛍の意味が判然としない。いつか、何度目かに読み返すとピンときたりするものだろうか。

もう一つ分からなかったのは、蛍狩り会場でのシーンの終盤。夜空に輝く星を「大きな蛍」と見紛い、幻の雨の音を聞く。自分を「幽霊」とあざけた後、幽霊の連想から、かつての捨子の幻を見る。(捨子は、銀平の子かどうか定かでない)

この一連の、現実と非現実が混じったシーンの解釈が難しい。蛍の意味と併せ、今後の宿題。

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