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『カラマーゾフの兄弟』と山上容疑者の父殺し

『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー著:亀山郁夫(訳)光文社古典新訳文庫

 ようやくドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読了した。先週の十四日のことだ。その日は奇しくも、安倍晋三元首相銃撃事件で、容疑者が殺人罪で起訴された日だった。
 事件は昨年七月、奈良の私鉄駅前で衆議院選の応援演説中だった安倍氏を、山上徹也容疑者が手製のパイプ銃で殺害。
朝日新聞によると、十三日奈良地検は、殺人と銃刀法違反の罪で起訴。約五カ月半の鑑定留置を踏まえ、心神喪失の状態にはなく刑事責任を問えると判断。今後は裁判員裁判で審理の見通し、とある。
 山上容疑者の境遇については、周知のとおり。父親の死後、残された母親が旧統一教会にのめり込み、やがて自己破産。その追い打ちをかけるように、重い病気を患っていた容疑者の兄は後に自殺している。そこには、悲劇的な家庭崩壊の図式がある。
 容疑者は、その家庭崩壊の原因を作った旧統一教会に強い恨みを持ち、教団と深い関わりのある安倍氏に怒りの矛先を向けた。

 改めてだが、私のなかで『カラマーゾフの兄弟』と今回の事件が、思わぬタイミングで合致した。なので小説の登場人物たちと、山上容疑者を重ね合わせてみたい。
 『カラマーゾフの兄弟』は、悪徳な地主フョードル・カラマーゾフが屋敷で何者かに殺され、その容疑者となった息子たちをめぐる所謂「父殺し」の話である。私はこの小説を、一ロシアの家庭崩壊の物語と読んだ。

 フョードルの長男のドミートリーは軍人で、性格は激しく喧嘩っ早いが、高貴な心もある。フョードルとは、同じ女性をめぐり対立。財産のことでも一悶着あり、父親を殺すと、日頃方々で公言している。フョードルが殺された夜、その屋敷に足を踏み入れており、容疑者となる。結局、父を殺したのは、ドミートリーではないのだが、アリバイが証明されず裁判では有罪。そのままシベリア抑留となる。

 次男のイワンは、インテリで無神論者。「神がなければ、すべては許されている」という独自の哲学がある。神などはこの世にない、という立場。
 私にはこの「神」嫌いの態度が、妙に旧統一教会に憎しみを向ける山上容疑者の心情に皮肉にも重なる気がする。

 そのイワンの独自の哲学に傾倒していくのが、カラマーゾフ家の下男スメルジャコフ。実はフョードルが孕ませたホームレス女の子供なのだ。世間的にはフョードルの子という認知もなく、この私生児は形として主に仕える身。不遇な環境からか、自分の出目や、ロシアという国さえ憎んでいる。他の三兄弟、いわゆる嫡出子たちへの激しい劣等感もある。
 人嫌いで、子供の頃から猫を殺していた、というエピソードも。実はフョードルを殺したのもスメルジャコフなのだが、猫殺しから、人間へと移っていくところが怖い。典型的なサイコパスだと思う。
 ただ、この小説をより難解に複雑にしているのは、象徴的、形而上学的に父殺しは、イワンだというところ。
 スメルジャコフが語るには、本当の犯人は、主犯はイワンで、自分はあくまでも、イワンの望みを叶えただけの実行犯、と語る気味悪さといったらない。
 この殺人者は「癇癪」の持病を持つ。フョードルが殺された夜も、「癇癪」の発作で気を失い、それが彼のアリバイとなる。それは一種の心神喪失状態だが、この病理と暴力衝動の関係は気になるところだ。
 やがて、心酔していたイワンに突っぱねられたスメルジャコフは自己崩壊し、自殺してしまう。
 気になるのは、山上容疑者がどこまで心神喪失があったのか、ということだが、鑑定ではなし、とされている。もちろんスメルジャコフと山上徹也は同等ではない。
 三男のアリョーシャは修道僧で、父親とも兄二人とも決定的に違う。慈悲深く、なにより神に仕える身だ。なので、当然イワンの無神論と対立する。兄のドミートリーが収監された後も、何度も面会に訪れ、兄を勇気づけようとする。
 少年たちのリーダーであるコーリャ・クラソートキンという少年も印象的だ。自称社会主義者と語り、命がけの度胸試しをしたり、火薬作りに励んだり、かなり過激な少年。訳者の亀山郁夫氏は、コーリャがドストエフスキーの未完のこの小説の第二部の主人公になる予定だったのでは、と推測。この第一部の十三年後から始まる第二部では、コーリャは仲間たちと革命結社を作り、時の皇帝アレクサンドル二世の暗殺を企てる。だが失敗、コーリャは罪を問われ、シベリアへと送られる。これが亀山氏の推論。
 いずれにせよこの今回の第一部小説においてはもちろん父親であるフョードル・カラマーゾフが殺されるわけだが、未完の第二部においては、国の統治者を殺すというドラマに変わっていく。統治者イーコール国の父権者と見るならば、その国自体の父性を殺めるということ。ここでまた新たに山上徹也のことが脳裏に過る。

 あくまでも象徴的な意味で、フョードル・カラマーゾフやアレクサンドル二世が、安倍晋三氏の統治者としての父性と重なりはしないか。私のなかで、妙にそれが重なってしまう。
 不謹慎な物言いであることを承知で言うと、こういう仮説が成り立つ。
 旧統一教会の韓鶴子(ハンハクチャ)総裁を、ある議員がマザームーンと呼んでいたように「母親」と見なす。それでは「父親」は誰なのか。それは教団とも関係が深かった、かつての内閣総理大臣をニッポンの父親と見なすのは、不自然ではない。
 つまり、この事件そのものが山上徹也の、壮大な「父殺し」の物語りになってしまっているのだ。この旧統一教会、現在は家庭連合と言うらしいが、この連合の「家庭」も崩壊してしまっているのも、注目したいところだ。
一個人の崩壊が、一家庭の崩壊を生み、やがて国家の崩壊へと辿る。もしかしたら、ドストエフスキーはそういった過程を、壮大な物語で語りたかったのでは。
 いずれにせよ、今後の山上容疑者の裁判を見守りたい。


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