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掌編小説『武蔵野サイクリング』

 落葉樹の隙間から、初夏の日差しが肌を焼く。汗に濡れた肌を、土ぼこりを含んだ風が不快になでていった。
 自転車をこぎ始めて間もないというのに、もう息が上がっている。
「榎本さん、ペース落としてくださいよぉ……」
 息も絶え絶えに声をかけると、彼女はチラリと振り返って逆にペースを上げた。向こうはクロスバイク、こっちはママチャリ……とは言うものの、女性のこぐ自転車に着いていけないようでは、さすがに情けない。
 この真っ直ぐに延々と続く道は、多摩湖自転車道と言うらしい。道幅は四メートル程だろうか、自転車と歩行者の専用道路だ。休日のせいか、散歩を楽しむ人やジョギングにいそしむ人が多く、出発してからずっと歩行者を避けるようにして自転車を走らせている。
 時折景色が開け、広大な畑の中で旋風つむじかぜが土ぼこりを巻き上げるのが見える。宙に舞った土ぼこりは風にのって、近隣の住居へと降り積もる。ベランダに干してきたボクの洗濯物もきっと、いまごろ茶色く染まっていることだろう。
 東京にこんな広い畑が広がっているだなんて、二十二年も生きてきてまるで知らなかった。ましてや農家が道端で野菜を直売してたり、無人販売の小屋まであるだなんて……此処ここは本当に東京なのだろうかと疑ってしまう。もう少し早く、この事実を知っていれば……。

 都会で就職することを夢みていたボクは、なんとか東京の企業に採用された。ただし二十三区内ではなく、小平市こだいらしの企業だ。そう、ボクは知らなかったのだ。東京も中心を離れれば、広大な畑が広がっているということを。
 この田舎加減では、就職先に東京を選んだ意味がない。憧れのアーバンライフは、何処どこへ行ってしまったのか……。面接で初めてこの地を訪れたとき、もちろん思い描いていた東京と違うことに気づいてはいた。しかし断ろうかと迷っているうちに、内定が出てしまった。就職難のご時世、せっかく出た内定を断れるはずもなく、そのまま就職することになってしまった。
 新入社員研修も終わり、五月の連休明けから榎本さんの下で営業を学んでいる。初めて顔を合わせたとき彼女は、「よろしゅうな!」と言って、ボクがよろめくほど強く肩を叩いた。
 可愛らしい見た目とは裏腹に、ぶっきらぼうで大雑把な人だ。しかも仕事ぶりは苛烈かれつを極めるし、もちろん指導だってスパルタ方式と呼ぶにふさわしい。
 けれども先輩が厳しかろうが優しかろうが、ボクにとってはどうでも良いことのように感じられていた。憧れていたアーバンライフなんて、此処ここには無いのだ。正直に言えば、此処ここでの暮らしは苦手だ……いや、嫌いだと言い切ってもいい。何とか抜け出す方法は無いものか、とすら考えている。

 昨日の夕方、榎本さんが運転する営業車の中で、自転車を持ってるかと訊かれた。ママチャリならあると答えると、自転車に乗って田無駅たなしえき集合と告げられた。
「明日って、休みですよね」
「どうせ予定ないんやろ?」
「あ、いや。えーっと……な、無いっす」
「ほな、問題ないな。ええトコ連れてったるわ」
 いつも通り、強引に話が進んだ。
何処どこです? ええトコって……」
「内緒や。明日のお楽しみ……っちゅうヤツやな」
 フロントガラスの向こうを見つめたまま、榎本さんは悪戯っぽく口の端をゆがめた。
 今朝十時に田無駅で落ちあい、南へ下って自転車道の始点に立ったとき、榎本さんは斜め後ろを指差して言った。
「あそこ、境浄水場や。こっから真っ直ぐ十キロほど走ったら、東村山の浄水場があんねん」
「じゃ、これって浄水場を結ぶ道なんですか?」
「せやで。道や言うても、水道やけどな」
 水道道路と言うらしい。浄水場を真っ直ぐに結ぶ、大きな水道管の上に作られた道路なのだそうだ。此処ここから東村山浄水場へ、そしてさらに上流の水源まで続いているらしい。その水源が、今日の目的地だと告げられた。

 十キロの直線道路を、三分の二ほど進んだ頃だろうか。八坂駅を越えて踏切で黄色い電車を見送ると、自転車道の雰囲気が一変した。利用者の数が急に減り、長閑のどかさが一気にその度合を増す。
 当然のように榎本さんがペースを上げ、後ろ姿が遠ざかっていく。あわてて強くベダルを踏むと、風をきる音が心地よく耳に響いた。行く手を阻む交差点や車止めもいまは無く、延々と続く直線をただひたすらに走りつづける。
 新青梅街道の下をくぐるトンネルを抜け、空堀川を越える橋にさしかかると、川むこうに白く大きな建物が建ち並ぶのが見えた。おそらくあれが東村山浄水場だろう。それまで真っ直ぐに伸びることしか知らなかった自転車道は、浄水場の横で何度か緩くカーブして車道と交差した。信号待ちのため、榎本さんが自転車を止める。
「昼飯食ってくか? おごったるで」
 あごで示した車道の向こうには、小さなうどん屋があった。

 カウンター席に座るやいなや、榎本さんが叫ぶ。
「おばちゃん、3Lスリーや!」
 頭上に貼り出されたメニューらしき黄色い札には、ミックスだの肉汁だの天付だのと書かれているけど、何を意味するのかまるで解らない。
「じゃ、ボクも3Lスリーで……」
 仕方なく同じものを頼んだ。カウンター向こうの厨房では、何人ものおばちゃんが慌ただしくうどんの準備をしている。
 運ばれてきたうどんは、冷たく茶色がかった麺だった。歯ごたえがある硬さで、噛めばブツンと千切れて小麦が香る。この麺を、熱々の肉汁につけて食べるのだ。
「旨いっすね。武蔵野うどん……でしたっけ?」
「せやろ。大阪のんとは似つかへんけど、このうどんは好きやな」
 そう言って彼女は悪戯っぽく笑った。
 ちなみに3Lというのはうどんの量を表しているようで、他の店で言えば大盛りくらいの量だった。ボクはやっと食べきったのだけれど、榎本さんはペロリとたいらげていた。

 武蔵大和むさしやまとの駅を越えた辺りから、自転車道は車道と並び上り坂となった。坂道でも容赦なく突き進む榎本さんの背中を、立ちこぎしながら必死に追いかける。やがて右手に、大きな公園の入口が見えた。公園に乗り入れて少し走ると、前方に陽の光を受けてきらめく広い湖面が見えてきた。
「着いたで、多摩湖や!」
 左手に広がる大きな湖は、ボクたちの行く道で真っ直ぐに切り取られている。こんなに直線状の湖岸なんて、見たことがない。ボクの疑問を察して、榎本さんが背中を叩く。
「行ってみいや。見たら解るわ」
 自転車を押して、何処どこまでも真っ直ぐな湖岸の道に進む。道幅は四メートル程だろうか。両側にしっかりとした高欄こうらんが続いている。左側には、湖面の煌めきがすぐ側まで迫っていた。右側の高欄につかまって、緑に覆われた公園を見下ろす。湖面のはるか三十メートル下方まで、法面のりめんが続いていた。
「何です、これ? て、堤防!?」
「ちゃうわ。ダムや、ダム。この道はダムの天端てんばや」
「ダムって……じゃ、多摩湖って人工の湖!?」
「せや。多摩川の水を貯めとるんや。東京の水瓶やで」
 左右の湖岸はこんもりとした緑で覆われ、右手に頭を出しているのは西武ドームだという。対岸の一区画はダムで堰き止められているようで、天端を車が走っている様子をかろうじて遠目に見ることができた。対岸のダムの向こう側もまた、湖なのだそうだ。さらにそのずっと向こう側には、奥多摩の尾根が連なっているのが見える。
 天端の途中に設けられたベンチに腰をおろしてしばし、雄大な眺望ちょうぼうに見ほれていた。
「雲のない日なら、富士山も見えるで」
 榎本さんが、日本一美しいと評される取水塔の方向を指さす。日本一同士の共演だなんて、きっと贅沢な眺めなのだろう。示された方向には白い雲が流れ、残念ながら富士山は見ることができなかった。

 気がつけばボクの横顔を、榎本さんがジッと見つめていた。
「な、何です?」
「いや。やっとエエ顔したな……思うてな」
「ひどい顔してました?」
「しとったわ。何が面白おもんないんか知らんけど、会社入ってからずーっとや」
 まるで自覚していなかった。心配される程に、ひどい顔をしていただなんて。
「解らんでもないで。ウチも大阪から出てきた頃は、こんな狐や狸が住むようなトコ住めるかい! って思うとったしな」
 榎本さんが、湖の煌めきのさらに向こう側を見つめる。
「せやけど……や。住めば都やあらへんけど、この辺の歴史やら成り立ちやら知るうちに、だんだんと好きになってきた。仕事かてなんでオッサンに混じって営業せなあかんのや思うとったけど、仕事が解ってくるうちにだんだんと面白おもろぉなってきた……解るか?」
 そう言ってボクに向き直る榎本さんの目を、真っ直ぐに見つめ返した。目をそらしてはいけない……そんな気がした。
 行き先を見失って、いやそんな物は最初からなかったのだろうけど、流されるままのボクを心配して、この厳しい先輩は此処ここまで連れてきてくれたのだ。きっと何かを伝えようとして……。
 けれどもどう応えて良いのか解らず、言葉に詰まってしまった。
「アホぉ。みなまで言わすんか……」
 呆れたように、彼女が天をあおぐ。
「あの……」
 頼りなく発せられたボクの声に、榎本さんが向き直る。
「も、もう少し教えてもらえます? この辺のこと……」
 曇っていた表情が和らぐ。
 悪戯っぽく彼女は口の端をゆがめた。
「しゃーないな……」
 苦笑しつつ立ち上がると、榎本さんはクロスバイクにまたがる。
「まだ走れるやろ? 行くで。ドームの横っちょに、トトロの森あんねん。ダイダラボッチのモニュメントもあるで」
 走りだそうとする榎本さんを見て、あわてて自転車にまたがる。
「……辞めんなや」
 そう聞こえた気がした。
 けれども風の音に混じってしまい、彼女の声だったのかすら定かではない。聞き返そうとしたけれど、すでに榎本さんは走り去った後だった。厳しくて優しい先輩の姿が、どんどん小さくなっていく。
 日差しがまぶしい……。
 湖をわたる爽やかな風を受けながら、ボクは榎本さんの背中を追って走り出した。

(了)


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