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花筏

春に対していまひとつ積極的になれなかった。

わたしはうたぐりぶかいたちなので、みんながよいというものをいちいち疑う。
しかも人々はよくよく考えもせずに、さまざまなものをよいと言う。

春はいいねえ、桜が咲いてきれいだねえ。
あたたかくなっていい季節だねえ。
春はあたらしい希望の季節だねえ。
そんな言葉が飛び交う。

春は無防備すぎやしないか、と思う。
満開の桜なんて、一切の思考を放棄しているように見えてくる。
わたしは入学式も、花見も、春物のかいものも、おしなべて苦手なのだった。

この春、思い出したことがある。
15年前の春、わたしはとてもくるしかった。

少し前に会社を立ち上げていた。
ほそぼそとスタートする気持ちでいたら、予想を超えて製品が売れた。
物事にはなんでもよいこととわるいことがある。
売れることはよいことであったが、子どもを二人抱えてわたしが自宅でやれる仕事をやすやすと超えた。
下のまだ1歳の子は、保育園に入れず待機児童だった。

そんなときに、販売した製品に構造上の不具合が見つかった。
それが原因の破損が数件発生した。
製品は命に関わるものであったので、製品リコールをすることに決めた。
対象者に連絡を取った。メールと郵便で連絡がつかない人には電話をした。
対象製品を全て回収し、点検、修理を行なった。
小さな子どもを抱えた自宅で、すさまじい数の製品を受け取り、工場に送り、点検し、再び戻した。修理の間に必要な人には代替品の貸し出しもした。

桜が満開の4月1日、保育園にやっと入れた子どもの入園式だった。
あたたかい天気のよい日だった。

その日はリコールのフリーコールセンターが開設した日だった。
外注の24時間のコールセンターは、マニュアル通りの対応はするが、それ以上になると全てわたしのところへ連絡が来ることになっていた。
わたしはいつくるかわからないクレームに怯え、電話口で罵詈雑言を浴びたり、ひたすら詫びる電話を日々受けた。

4月1日、わたしは次男を抱いて、保育園の書類や持ち物でいっぱいになりながら急いで川沿いの道を入園式から帰っていた。
きもちは入園式どころではなかった。

川にはあたたかくしずかな風が吹いていて、水面をやわらかく波立たせていた。
水面には、うすいピンクの桜の花びらが無数に散り落ちていた。
わたしは桜どころではなかったのだ。

この頃のことを思い出すと、今でも胸がつぶれる思いがする。

わたしは今年の4月1日に、15年前の4月1日のことをあざやかに思い出していた。
たまらなかった。
今自分がいるところから逃げ出したくなった。
夜も更けてから、たまらなくなって、いられなくなって、どうしたらよいのかわからなくなった。
クローゼットのコートをつかんで、はおる。

そこへ夫が来た。
「たまらないから外へ散歩へ行ってくる」というと、
「じゃあ、一緒に行くよ」と言う。
わたしは夫と一緒に表に行きたくなんてなかったのだ。
そもそも散歩に行きたいわけなんかじゃなかったのだ。

「散歩に行きたいわけじゃない。
何をしたいのかわからない」とわたしは言った。わたしの声は言った。

「わたしの手を握ってほしい」とわたしは言った。わたしの声がそう言った。
夫はわたしの手を握ってくれた。
手を握ってくれた。
「つらい気持ちがする。4月1日のことを思い出して」というと、
「あのころ、つらく当たってごめん」と夫は言った。彼の声はそう言った。

わたしは泣いた。
わたしの心はものすごく泣いた。
わたしの、わたしのありようが全て泣いた。
とても、とても泣いた。

「手を握ってほしい」
こんなかんたんなことを、わたしは15年も言えなかったのだ。
「つらく当たってごめん」
こんなかんたんなことを、あなたは15年も言えなかったのだ。

わたしは15年前のあの桜の降る川沿いの道を、今も歩いているようにはっきりと思い出す。
それは日常の何かの時に、スライドが急に挟まれるように現れる。
呼吸がくるしくなり、目の前がまっしろになってくらむ。

あなたの手が、今はある。
あなたの手が、わたしの手を握る。

毎年おなじようで、毎年春は違う。
15年前の桜は、今年の桜と違う。


今日歩いた川沿いの桜は、とてもうつくしかった。
わたしは写真をいちまい撮った。
桜の花びらが川に降っている。

今は、あのときではない。
わたしは、15年前のわたしではない。

春はいいなあ、と思った。
桜の花びらは風に舞い、川面に花筏を作っている。
桜も、川も、流れていく花びらも、みんな動いている。
わたしも動いている。
生きているものはみなすべからく動き、変容していく。

花筏は、わたしを運ぶだろう。
この春も、つぎの春も、その次の春も。
わたしが生きている限り、流れて運ぶだろう。

それが生きている、ということだから。

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