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春月

友に小包を送った。
中身はパンと本である。

ここ数ヶ月わたしが依存して毎日くり返し食べているぶどうパンを、友に送ろうと思った。
冬のことである。

関東から四国まで。ぶどうパンを送った。送料はたぶん1500円くらい。パンより高い。
このぶどうパンはとてもおいしい。
ぶどうパンのありようを超えないが、そのぎりぎりのやりすぎでないほどの量の干しぶどうが入っている。

わたしはぎりぎりのものが好きだ。
なぜか。ぎりぎりのものは生きている感じがする。
なまぬるいものは、ただただたいくつに思えてしまう。
わたしはそういうたちなのだ。

友はこのパンをたいそうよろこんだ。
さすが、わかっていたけれど、さすが、と思う。
ものの価値をちゃんと自分の頭で考える人は非常にすくない。
このぶどうパンのよさを十全にわかってくれる人がこの世の中にわたしのほかにもいるということは、大きな希望だと言える。

冬のうちにぶどうパンを二度送った。
さいきんそろそろ送らなくては、と思っていた。もう春になっている。
関東から四国までパンを安全に送る時期はもうわずかだ。
今年度これが最後という小包を送る。ぶどうパンは三斤入れた。
それからあんぱんとクロワッサンも入れた。わたしの好きなアーモンドプレッツェルというすごくおいしいのだけれどプレッツェルではないパンも入れた。

そのほかに2、3年前の「群像」や「現代思想」、今年の1月号の「世界」なんかも入れた。
それから原稿用紙の裏に(このエッセイの頭の写真の原稿用紙)、手紙を書いて入れた。

翌日の夕方、友からメールが届く。
ぶどうパンを今回もきちんと十分に正しく評価してくれた。
うれしい。
うれしいと思いながら夕飯のからあげを揚げていたら、うちに小包が届いた。

受け取ってみると、四国のその友からだった。
両手でやっと抱えるような大きな段ボールはどしりと重い。
開いてみるとなんとも壮観だった。
まずさまざまな大きさの黄色からオレンジのグラデーションの珠がひしめいている。
珠なので、四角い箱の中に空間が生まれる。
その空間に差し込むように、あたらしい布巾やら紅茶やら芋けんぴが散らされている。

黄色い珠は文旦で、それより濃いオレンジがかった珠は八朔だった。
箱のなかにそれらはたっぷりとひしめいている。
手に取ったらずしりと量感がある。手にとっても手にとってもまだ箱のなかには珠がひしめいている。

友はわたしのようにぎりぎりなのだ。
やりすぎにならないぎりぎりが箱にはつまっていて、わたしは思わず声に出していいなあと言う。
すばらしいものに出会ったとき、わたしはいいなあと思う。

このいいなあは、ほんとうに「いい」、「なあ」なのだ。
そこらへんの「いいね」などの重みの比ではない。
全身全霊でのいいなあなのだ。

わたしが関東から送った小包と、友が四国から送った小包がどこかで交差したろう。
ぶどうパン三斤と本が詰まった小包と、黄色のグラデーションの珠がひしめき、その間にふきんやら紅茶やら芋けんぴやらが挟まれた小包が日本のどこかで交差したろう。
わたしが原稿用紙3枚の裏に書いた手紙と、友が新聞の文字がないところに書いた手紙が夜のどこか、あるいはまひるまのどこかで交差したろう。

いいなあと思う。
ダンボールの珠のひとつを手に取る。
黄があかるい。
それはまるで春月のようである。
箱のなかにまだまだやりすぎを超えないぎりぎりのところの珠がひしめいている。
それはしずかに、けれど確かさを持って満ちてくる春の月である。
今日から3月だ。

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