見出し画像

能面はにわ

家族というのはへんなものだ。

まず、自分の経験したサンプル数がおそろしく少ない。
結婚離婚を繰り返したとしても、生まれ育った家族を入れてせいぜい片手の指で数えられるほどしか経験できない。わたしなんかは、実家の家族と結婚してからの今の家族と合わせて二つしか知らない。

夕方の台所の窓から外を眺めると、丘の向こうに数件の家が並んでいる。
家の外壁の色はさまざまだけれど、建物の大きさやかたちは似通っている。左から二軒目の家の一階の東側の窓にはよく女の人が座ってミシンをかけている。四軒目の家の二階には、ほとんどいつもテレビがついている。ついているのは大抵ニュース番組みたいで、以前はよくオバマ大統領が映っていた。トランプ氏が大統領になってからは、オバマ氏がトランプ氏にとって変わることなく、別の番組が映るようになった。かなり離れているのに、大画面テレビなので、こんなところまで見えてしまうのだ。

それぞれの家にはそれぞれの暮らしがあって、それは表面的には似通っているようで、実はとても違う。人と人とが共に無期限に暮らす、というのはなかなかたいへんなものだ。家族の数だけ変なルールや、うまくいったことや、いかなかったことが山ほどあろう。そんなことは風景の中に家族を置いてみたときに、雲散霧消して紛れてしまう。風景画の道ゆく人物像のように。


夕方、ブロッコリを茹でている。ブロッコリは歯応えをきちんと残した、勇気を持って堅めに茹でたものが好みだ。塩をきっちり効かせると、それだけですごくおいしい。どのぐらいで火から下ろすかについて、毎回毎回賭けのように真剣だ。ほんの数秒で、それはある一点を通過してしまった凡庸な茹でブロッコリになってしまう。たかがブロッコリでも、まんぞくいくものに仕上がることはあまりない。

沸騰した鍋の湯の中に、大きな房のものから茎をしたにしてブロッコリを入れていく。緑が一段階冴えて、たぎった湯がブロッコリの房を包む。ひと房に無数にある蕾の間にも、細かな泡が生まれては消え、消えては生まれる。みていると苦しい気持ちがして、喉元に何か迫り上がってくる。
ここで、ざるに上げた。

理想をやや超えた茹で具合だった。ブロッコリを茹でることを、ばかにしてはいけない。こんなふうに並々ならない油断ならないことなのであった。

犬の散歩のとき、いつも必ず見るものがある。
もう誰も住んでいない家の金網越しに見える庭に落ちている、はにわの首。
他にそういうたぐいのものがあるのではないのに、そしてはにわの首から下はどこにもないのに、どうしてだかはにわの首がずっと落ちている。


はにわは頭に何か被り物をしていて、目と口は空洞である。
これを見る時間や日によって、はにわはずいぶん表情が違う。
だいたいはとぼけた顔をしているが、いやににやにやして見えたり、少しさみしそうだったり、怒ったように見えることもある。
まるで能面のようなのだ。

今日は、ややひょうきんな笑顔に見えた。道路からすぐのところにあるから、通りすがりの人も気にしてみているのかと観察してみるが、目を止めている様子の人はいない。
わたしが連れている犬も、毎日そのすぐそばを通るのにはにわに興味を示したことはない。
はにわのすぐ横の金網の下の方のにおいには興味を示して、黒い鼻をできるだけ近づける。

匂いを嗅ぎ終えるとすぐ、今度は背中を小さく丸めて震えながら、上目遣いでわたしの顔を見ながら糞をした。
犬の糞をビニールに取りながら、すぐそばのはにわの顔を覗くと、窪んだ目に吸いこまれていきそうだった。

この家に住んでいた家族は、今はどこに行ったのだろうか。
庭には梅が満開である。井戸にはおもい蓋が乗せられている。
顔だけのはにわが一体残されて。とてもへんてこだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?